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中国さん、やさしくしてね [本]

引越し業者が、下見にやってきた。どれくらいのものを運ぶかをチェックして見積もりを出すためだ。一部屋一部屋案内して、これは持っていく、これは廃棄するなど説明していく。業者が来る前に一応検討はした。問題になったのは2つのソファ-セットである。1つは、もう20年ほど前に日本で買った日本の団地サイズのソファ-・セット。さすがにこれは、廃棄と言うことで素早く一致を見た。実際あまり使っていない。もう一つは、9年前にタイを出るときに買った白いレザ-のかなり大振りのソファ-。一人掛けのソファ-は今でもとてもすわり心地がよいのだが、3人掛けのソファ-のスプリングがちょっと弱くなっている。これも思い切って廃棄ということになった。引越し業者のおばさんがやってきて、書類を見せるためにそのソファ-に座ったとき、思ったより深く沈みこんで足が浮き上がって、「うわぁ~」と叫んだ。そんなに叫ぶほど傷んでいたのか? 廃棄で正解。

一応のチェックが終わり、いろいろと説明を受けた。TVは中国の電波システムに対応するかどうかわからないので、チェックするとのこと。後ほど、これは中国では映らないと知らされ廃棄が確定する。会社のスタッフがもらってくれるようだ。酒類の持ち込みは可能だが、いろんな問題を引き起こす引き金になるので、引越し業者としてはお勧めできないという「進言」を受けた。「え、お酒が持っていけない? 私のワインコレクション、日本酒ストックがダメ?」、思わず私の目が潤む。実際、2~3本を除けば船賃をかけてもっていくようなものでもないのだからいいのだけれど、精神的に大きな痛手となった。「中国では、本の持込にも制限があるようです。事務所でチェックして後で知らせます。今見たところ、ざっと1,500冊ほどあるようですけど、ひょっとしたら...」。いや~な感じである。「え、だめなんですか。私の本はアホな小説ばかりで、政治的な本なんて一冊もありませんよ。なんとかしてくださいお代官様」。「私は代官でも中国政府高官でもないので、どうもできません、調べて連絡します」。にべもない。

後日メ-ルが来た。「400冊から600冊まで...」。私の読書人生に楔が打ち込まれた瞬間だった。あの本たちと別れなければならない? 喜びも悲しみも分かち合ってきた、親友のようなあの本たちと? 人生を学び思いやりを教えられた、家族のような本たちと? 「お代官さま~...」。しかし、よく考えれば、読み返す本はせいぜい20冊ほどである。あとの本は、引越しのたびに場所を決められると、次の引越しまでそこを動かない。持ち歩く意味はほとんどない。しかも99%が文庫本だ。昨年末、NHKで「坂の上の雲」の第3部最終章をやっていた。まだ原作を読んだことがないという妻に、本棚の司馬遼太郎のコ-ナ-から、これを読むべしと全8巻を渡すと、紙が黄ばんで、字が小さくて読みにくいと苦情を言われた。そうなのだ。いつの間にやら本たちは風雪を経て読みにくくなってしまったのだ。悲しいが事実である。次に自分で読むときは、買いなおすか、日本の図書館から借りると言うのが良さそうだ...と、5分ほど頭の中で検証をすると、まだ読んでない本を含め300冊ほどを持っていけばいいと思うようになった。問題は、いかに残りの本を処遇するかと言うことである。ネットで調べると、「Book-Off」がソウルにもあり、引き取りもしてくれるようだ。電話をして聞いてみると、「50冊以上なら、引き取りに伺います」とのうれしい返事。「50冊と言わず1,000冊くらい持っていってください」、「で、どのような本なんでしょう?」、「9割以上文庫本です」。ここで、電話の向うの声が弱くなった...「文庫本ですか...ちょっと時間が掛かりますので、相談して一週間後くらいにまた電話します」。古文庫本には市場価値がないか、あっても利益が薄いのであろう。はたして「Book-off」から、電話はあるのであろうか。
で、Book-Offから電話があり、3月31日に来てもらえることになった。それに備えて、早速仕分け作業に入る。一冊づつ検討していたら時間がいくらあっても足りないので、作家で仕分けをした。読み返しそうにないけど、そばにいて欲しい作家、読み返すかもしれないけどその時はまた買えばいいやと思う作家...考えても論理的結論は出ないので、「感覚」に任せてさよならすべき本たちをダンボ-ル箱に入れていく。あっという間に5箱出来てしまった。そんな作業をしていると、あると思っていた本がないことにも気がついた。息子に持っていかれたり、スイスを出るときに寄付したりしたのを忘れていたのだ。本棚がすっきりし、気分もすっきりした。

後日、Book-Offが本を引き取りに来てくれ、「503冊、約8000円です」との連絡を受けた。もっと出さなければいけなかったのに、中国の通関が通るかどうか心配である。


そしてここ数日、韓国サイドの引継ぎが始まり、送別会が始まったりして、かなり慌しくなってきた。時間も大きく制限されているので、思い切ってソウルからの発信はこれを最後にしたいと思う。 

皆様にはお付き合いいただき、コメントをいただき、ほんとうにありがとうございました。上海で落ち着いたらまた始めるかと思いますが、それまでしばらく失礼いたします。2012年の桜の季節がそこまで来ているようです。皆様が明るく暖かい春をお迎えになるよう心から祈ってします。


2012年4月吉日 雀翁拝

1月の読書 「歩兵の本領」、「雨あがる」、「彗星物語」など [本]

始めに読んだ2冊の小説がとても楽しかったので、今月は「小説だけを読もう」と決めた。別に決めなくても、読むもののほとんどが「小説」なのだけれど。旧正月中にやってきた息子は、太い英語のしかもBusiness書を読んでいた。「そんなもん読んでおもしろいか?」と聞くと、「ためになる」という返事が返ってきた。私は、「ためになる」読書をほとんどしたことが無いので、ちょっと驚いた。読書に求めるものは遺伝しないようだ。「それより楽しい本を読んではどうか」と父親らしからぬコメントをしたら、「ま、好き好きだから」とひどくまっとうな応えだった。彼はいつの間にあんなに成長したのだろう。

本のイメ-ジの貼り付け方がわかったので(今さら)、くっつけて見た。Visualの力で、くだらない感想文が何やらそれらしく見える(自分にだけ)から不思議だ。


「歩兵の本領」、浅田次郎
「彗星物語」、宮本輝
「せんせい」、重松清
「雨あがる」、山本周五郎
「ミカドの淑女」、林真理子
「村田エフェンディ滞土録」、梨木香歩



歩兵の本領 (講談社文庫)

歩兵の本領 (講談社文庫)

  • 作者: 浅田 次郎
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2004/04/15
  • メディア: 文庫


自衛隊という組織の、政治的位置づけとかの話はなしに、その底辺近くでの隊員たちの日々の生活が、著者自らの体験をもとに綴られている。日本が高度経済成長期という時代に差し掛かったころだから、ずいぶん前の話である。星の数(階級)より飯の数(経験)といわれる世界だ。きつい訓練の中、肉体的制裁は日常茶飯事。しかし、そんな中にもホロっとさせられるエピソードがちりばめられ、浅田次郎の筆の力に引き込まれていく。一部見識の高い人はそう思わないだろうけど、お馬鹿な私には文句なく楽しめる一冊だった。
私の友人で自衛隊に入った人が一人いる(もっといるかも知れないが)。中学の友人Wだ。中学卒業以来一度も会ったことのなかったWと、恐ろしい偶然で、20数年前、北海道の列車の中で出会った。そのころ私は、サラブレッドの故郷、北海道日高地方で勤務していた(厩舎にいたわけではない)。出張で帯広に行く列車の中でWに出会ったのだ。「おお、Wとちゃうんか?こんな所で何しとん?」、「え、雀翁か?おまえこそ、何してんねん?」「おれは、今、N社に入って日高にある工場におるんやけど、出張で帯広に行くんや」、「そうか、おれは自衛隊に入ってて、今から基地に戻るとこや」、「え、Wが自衛隊?似合わへんなあ」。Wとは中学2年生で同じクラスになり、とても仲が良かった。毎日のようにしょうもないギャグを飛ばしあい、ふざけあっていた。どちらかといえば、軟派でたよりない感じのWから、「自衛隊」は想像しにくかった。「この前、ミグが飛んできて大変やったんとちゃうんか?(ソ連の戦闘機ミグに乗ったパイロットが北海道に亡命してきた事件) スクランブルとかあったんか?」、「おれは、航空自衛隊とちゃうからスクランブルはなかったけどな、まあ、緊張した」...そんな会話を交わして別れた。Wはどうしているんだろう。



彗星物語 (文春文庫)

彗星物語 (文春文庫)

  • 作者: 宮本 輝
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 1998/07
  • メディア: 文庫


まだベルリンの壁が壊れる前、東欧のハンガリーから留学生を迎えた城田家の人々、留学生のボラージュ、そして城田家の犬「フック」の物語。ものすごいアップダウンのある展開ではないのに、私はこの物語に酔った。読んでいてとても楽しい。「ちょっと、宮本さん、、それはないでしょ」、という無理な(現実味の薄い)展開もあるが、「小説」の楽しさが満載のお話である。城田氏は貿易会社を経営し、ハンガリーでの商売の行きがかりから、男気を発揮して、自費で日本への留学生を一人引き受ける。でも、その留学生が来日したときは、事業は倒産し決して楽な生活ではなかった...
違う文化で育った人の価値観の違い、そんな違いを超えた人間の普遍的なやさしさ、緩衝剤のような働きをする愛犬フック。読んでいて、人間て本当にしょうがないなと苦笑する。エンディングに悲しいエピソードもあるが、読後感は抜群によかった。この本を読んで、「今月は小説だけ」と決める。



せんせい。 (新潮文庫)

せんせい。 (新潮文庫)

  • 作者: 重松 清
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2011/06/26
  • メディア: 文庫


久しぶりに重松清を読む。タイトルからして中身がわかるような感じである。子供にとって先生は大きな存在である。クラスの中で、部活で、学校で、先生の影響は計り知れない。「いい」先生に当たることもあれば、「いまいち」の先生にあたることもある。生徒を育てる先生としての役目と、勝つために生徒を選ばなければならない部活の監督としての立場を一人の先生が両立しなければならないことがある。つっけんどんで冷たくさえ感じる保健室の先生が、教室に行けなくなった生徒をつっけんどんに迎え入れ、魔法の「ドロップ」で子供の心を解きほぐす
いくつかのエピソードを読みながら、私は、小学校高学年のころ、九州の炭鉱が閉鎖になり転校してきた数人の同級生のことを思い出した。彼らがなぜ転校してきたかの詳しい説明はなかったが、わけありは雰囲気から明白だった。授業で教科書を読むとき、聞き慣れない九州のイントネーションに、教室が大爆笑した。今ならそれがどんなにその人たちを傷つけることになるかよくわかる。でも、そのころはそこまで想いがいかなかった。ただでさえ、新しい土地に来て不安であり、家族の経済状態も楽でなく家の中も暗かったであろうことは想像がつく。なのに、教科書を読んだだけで、いわれもなく笑われる。くやしかっただろう。先生が地元の私たちに何と言ったかは覚えていない。ただ、あの人たちに会うことがあれば、謝らなければいけないと思う。



雨あがる (時代小説文庫)

雨あがる (時代小説文庫)

  • 作者: 山本 周五郎
  • 出版社/メーカー: 角川春樹事務所
  • 発売日: 2008/08
  • メディア: 文庫


短編集だが、タイトルの「雨あがる」は寺尾聰主演で映画化されたのをDVDで見たことがある。面白い映画だったが、いまいち何が言いたいのかよくわからなかった。今回、この原作を読んで、それがすっきりした。こんな話だったのかと膝を打ちたくなった。山本周五郎のストーリーは心に温かく染みる。欲を持たず、謙虚で、人を先にして自分を後にする人。そんな人が住みやすい世の中であればどんなにいいだろう。そんな人が住みにくい世の中は、どんなにぎすぎす・どろどろしていることだろう。



ミカドの淑女(おんな) (新潮文庫)

ミカドの淑女(おんな) (新潮文庫)

  • 作者: 林 真理子
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1993/07
  • メディア: 文庫


林真理子の本はほとんど読んだことがないが、私が見ていたNHKドラマの原作を書いていることを知り、何か一冊読んでみようと、Amazonで適当に選んだ。皇室と学習院の世界で活躍した下田歌子(この本を読むまで知らなかった)の半生の物語。一般に世襲制というものに大変懐疑的な私であるから、皇室の話にはあまり興味がわかない。今の天皇は非常に立派な人だと思うし、個人的に大変尊敬しているが、それは個人への尊敬であって、その血統やシステムに対するものではない。また、この話で重要な役割をする乃木将軍も好きではない。旅順攻略で無策によってあれだけの人を死なせた責任が、ただ明治帝の寵愛により問われないというのは理解しがたい。いや一人乃木将軍が好きでないのではなく、徳川を倒したあと、藩閥政治を専横した薩長の政治家・官僚・軍人たちが、組織として好きではないのである。政権を取るまではいいことを言っておきながら、いざそれが手中に入ると、言っていたこととちがうことをする...今の与党のようである(ちなみに私はドジョウさんを支持するがM主党は支持しない)。歴史は繰り返されるのだろうか。なお、この見解は、「ミカドの淑女」とは全く関連がない。



村田エフェンディ滞土録 (角川文庫)

村田エフェンディ滞土録 (角川文庫)

  • 作者: 梨木 香歩
  • 出版社/メーカー: 角川書店
  • 発売日: 2007/05
  • メディア: 文庫


「滞土録」とは、「トルコ滞在記録」のことである。またエフェンディとは、学問を持った人に対する尊称だ。紀伊半島沖で座礁・難破したトルコ船(エルトゥ-ルル号)の乗員を地元の日本人が救助したことを恩にきて、トルコ政府が一人の遺跡発掘学者(村田)を国費でトルコに迎えた。トルコの帝政は末期症状(第一時対戦直前)で、いつ革命が起こってもおかしくない状態だったが、遺跡の宝庫であるトルコでの滞在は、それに関する学者にとっては、特別のものだったはずだ。村田はその下宿先で、イギリス人、ドイツ人、ギリシャ人、トルコ人、そしてオウムと暮らすことになる。遺跡関連の叙述は若干冗長であくびもでるが、異文化の中で暮らす日本人たちの姿は興味深い。村田が日本に帰ってすぐ、トルコで知り合った人たちが戦争の中で死んでいったことを手紙で知らされる。本編中、登場人物の口から、今の日本人が忘れかけている、国への思いや自国の文化や歴史への思い入れが語られる。話は、まったくのフィクションであるが、100年ほど前の世界の様子が知れておもしろい。

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12月の読書 ぼんやりの時間、夢をかなえるゾウなど [本]

12月に入ってやたら気温が下がり、マイナスを記録するようになった。雪が降り危ないので、もう山にも行けない。ソファ-と熱いコ-ヒ-にチョコレ-ト、そして本があれば、私は冬眠ならぬ冬読を楽しむことができる。


「君を乗せる舟 髪結い伊三次捕物余話」、宇江佐真理
「東海道五十三次」、山下清
「テルマエ・ロマエ 1~3」、ヤマザキマリ
「ぼんやりの時間」、辰濃和男
「とりつくしま」、東直子
「嘘をもうひとつだけ」、東野圭吾
「夢をかなえるゾウ」、水野 敬也


「君を乗せる舟 髪結い伊三次捕物余話」、宇江佐真理
久しぶりにこのシリ-ズを読んだ。肩のこらない時代小説。今回は少年たちの大人への脱皮。武士階級の子弟は、元服をして前髪を落とす。きっちりした大人の世界への出発の儀式があった。この大人とは、たぶん「自分で責任を取る」ということだろうか。その方法や形式はともかく、通過儀礼として意義のあることのように思える。現在日本では、法律によって、20歳の誕生日がそれに当たる。しかし、それは事務処理としての法律的のそれであって、一人一人にその覚悟が出来ているとは思えない。また、成人式には元服のようなピンと張った緊張感はない。人が大人になるのは、その数字としての年齢ではなく、覚悟の如何が問われるように思う。ほのかに思った人の花嫁姿を乗せる小船を、橋の上からそっと見送る、そうやって少年は大人になって行くのかも知れない。


「東海道五十三次」、山下清
11月、我が家に来てくれたFさん夫妻のお土産。来韓前に美術展に行って、買ってくださったそうである。山下清といえば、ずいぶん前に日曜の夜、芦屋雁之助主演のTVドラマで見たような記憶がある。貼り絵の画家と言う印象を持っていたが、この本は、ペンのスケッチだ。いわゆる企画もので、編集者とともに東海道五十三次の街へ出かけ、そこの風景を描く。それぞれ一片の彼のコメントとともに、五十三のスケッチが一冊の本になっている。絵の良し悪しはまったくわからない。でも、好きだと感じる。彼の短いコメントは楽しい。時々、この宿場には描くべきものがあまりないなどと、正直な感想を述べている。また、彼自身が「ルンペン」として訪れた当時の思い出話もとても楽しい。コメントの語り口が、TVのドラマで見たのとほとんど同じなので、読んでいると芦屋雁之助の声が聞こえてきてしまう。ただ、山下清がこの企画に乗り気でないような雰囲気が漂っていて、ちょっと切ない。


「テルマエ・ロマエ 1~3」、ヤマザキマリ
いただきものが続く。この本は10月末、我が家に来てくださったSさんからいただいた。しかも、日本に戻られてから、わざわざ、「これ、今私が嵌ってるもの」と、黒砂糖のお菓子とともに送ってくださったのである。黒砂糖のお菓子はとてもおいしかったので、あっという間になくなり、この3冊の本がしばらく本棚にくすぶっていた。よくわからないコミックだが、基本的に「ロ-マ時代の浴場の設計士が、現代日本の銭湯や温泉にタイムスリップして来て、ロ-マの浴場建設のヒントを得る」という展開である。コミックは久しぶりに読んだ。スラムダンクを何回か読み返したあとは、とんとご無沙汰している。著者自身、ローマ帝国に造詣の深い?イタリア人と結婚しているので、そのあたりの知識は深いのであろう。スト-リ-に出てくる、当時のロ-マ市民の浴場に対する大変な思い入れがなんだか不思議だ。しかし、古代遺跡でよく「浴場の遺跡」などがあることを思うと、ひょっとして、古代ロ-マ人は、大変な風呂好きだったのかも知れない。私は毎日シャワ-で済ませ、「浴槽に浸かる」ということは温泉にでも行かない限り縁のない生活をしている。お風呂に対する思い入れもたいしてない。水圧のしっかりしたシャワ-があればそれで満足だ。面白い本だが、続きを買いたいとは思えない。コミックはすぐに読めてしまうので、それにかける時間に対し、物理的な重さや体積がかなり大きい(要はかさばる)という不都合があるからである。


「ぼんやりの時間」、辰濃 和男
元新聞記者の著者がぼんやりする時間を持つことが以下に大切であるか、また有意義であるかを説いた本。「ぼんやり」が「有意義」というと逆説的だが、この本の例に上げられているように、たくさんの著名人が、人生において「ぼんやりする時間」の重要性を熱く語っている。特にクリエイティブな仕事をする人にはそれが欠かせないと。例えば、池波正太郎は、散歩を日課としており、2~3時間ぼんやりと歩いたのだそうだ。ある日、川の流れを見ていたら知らぬ間に2時間経っていたとか...私たち小人はぽんやりすることがどうも苦手である。何かをしていないと落ち着かない。「こんなことをしていてはいけないのではないか」とあせってしまう悲しい習性を持っている。「ぼんやりする」いうのは「何もしない」とは同義語ではない。確かに、高さ50mのつり橋の上ではぼんやりすべきではないだろうし、一生を賭けた資格の試験中にもぼんやりすべきではない。でも、山を歩いていてもぼんやりできるし、座禅を組んでいてもぼんやりできるだろう。もちろん南国のビ-チに寝そべってぼんやりすることも出来る。要は精神を解放する時間を持つということだろう。この夏、カナディアン・ロッキ-でガイドをしてくれたIさんが、「山を歩いていると、それもけっこう急な上り坂を歩いていると、歩くことに集中して心が空っぽになるんです。それがとてもいいんです」と言っていたのを思い出す。大いに納得できる話しである。


「とりつくしま」、東 直子
死後、時間を限って現世に戻ることを許される、誰かの身体に乗り移るなど、死後の「もし」をテ-マにした作品は多い。浅田次郎の「椿山課長の7日間」などはその代表作だろうか。仏教の輪廻思想でも、生まれ変わってまた何かになる。ただこれらすべて、死後または生まれ変わってなるものは、「生物」限定である。生まれ変わって貝になることはあっても、主のいない貝殻にはならない。輪廻で、前世は便器の蓋でしたというのは聞いたことがない。さて、本編、「とりつくしま」は、死後、「非生物」限定で何か物体に取り付くことができるという設定である。何故「非生物」かというと、生物にはすでに先住の魂が宿っているから無理との説明だ。中学生の野球部ピッチャ-を息子に持つ母親は、死後、「とりつくしま係り」の担当官に、息子の最後の試合のマウンドのロージンにとりつきたいと願う。憧れの人のリップ・クリ-ムにとりつく女の子もいれば、義理の息子に買ってやったカメラにとりつく老婦人、残した妻の日記帳にとりつく夫もいる。それぞれのエピソ-ドが、楽しい。さて、こういう本を読むと、「自分なら...」と考えるのが人情である。そこで、「自分なら...」と考えたが、正直、何も思いつかない。すでに子供は独立し、少なくとも残された家族が経済的にやっていける道筋はできつつある。物に執着もない。その時が来たら、この世からきれいさっぱり消えてなくなりたいと思うのである。「ゲゲゲの女房」の父親が、「ああ、もう終わりか、面白かった」と旅立って行ったように。やり残したことがたくさんあっても、タイムアップはタイムアップだ。「とりつくしま係り」は、現世に未練を残した人だけに声をかけるということだから、私には声がかからないだろう。


「嘘をもうひとつだけ」、東野圭吾
久しぶりに東野圭吾の本を読んだ。ずんずん読めて、あっという間に残りペ-ジがなくなってしまい、もうちょっと読みたいなと思った。物語は、刑事加賀恭一郎のシリーズ物の短編集である。どの編にもしっかりしたトリックがある。でも、ミステリ-を読むとき、私にとって最も大切なのは、納得できる動機である。どんなに巧妙なトリックがあろうと、「そんなことで人は殺さんやろ」と思ってしまうと、もう読めなくなってしまう。もちろん、「人を殺したいと思う理由」は人それぞれで、現実の社会でも「そんなことで人の命に手をかけるのか」という事件はよくある。最近ではほとんど理由のない殺人が珍しくなくなってきている。非常に悲しいことだ。でも、小説として読ませる以上、そのあたりはきっちりとして欲しい。納得できる動機...つくづく人は勝手だと思う。ところで、加賀恭一郎の被疑者に対するアプロ-チが刑事コロンボのそれに重なって見えるのはわたしだけだろうか?


「夢をかなえるゾウ」、水野 敬也
バンコクに住んでいた時、会社の近くの四つ角にゾウの顔を持つ神様(エラワン)が祀ってあった。毎日たくさんの人がお参りに来て、花や踊りを捧げていく。
さて、この「夢をかなえるゾウ」の主役?はガネ-シャというゾウの顔を持つ神様である。たぶんヒンズ-教系の神様だろう。この神様が、自分の境遇に不満を持つ、でも実行力のないあきらめの早いサラリ-マンに、自分を変え・成功へと向かう方法を指導していくフィクションだ。めちゃくちゃおもしろく、かつ、何度もうなずかされる。読み終わったとたん、また最初から読み返すという経験を始めてした。2度読んでもおもしろい。そして面白いだけでなく、ためになる、ような気がする。私はいわゆるビジネス書がきらいなのでよくわからないが、たぶんこの本に書いてあるようなことが細かく説明されているのだろう。そういう意味で内容的に新しいものではない。でも、やろうと言う気にさせてくれる本だと思う。成功への第1ステップは、「靴を磨け」である。「何故?」、誰もがそう感じる。本の中の青年も疑問に思い質問する。するとガネ-シャはあのイチロ-の例を出し自分の商売道具を大切にする理由をのべる。第2ステップは、「コンビニのお釣りを寄付せよ」である。「何故?」、思って当然である。すると、今度はロックフェラ-の例を出してくる。関西弁に違和感のある人にはちょっときついかも知れないが、そうでなければ、きっと楽しく読める本だと思う。

1つ明確なのは、行動しなければ何も変わらないということ。

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10月~11月の読書 「剣岳・点の記」、「フェルマーの最終定理」など [本]

慌しい2ヶ月だった。お客さんが3組来られ、仕事が大きな山を向かえた。父の49日の法要があり、私自身にもちょっとしんどい事があった。ふと、それらから距離を置き、Reading glass(日本名 老眼鏡)を相棒に、ソファによっかかって一人本を開く。そんな時間は砂漠のオアシスのように心に潤いをくれる。


「家族の言い訳」、森浩美
「フェルマーの最終定理」、サイモン・シン
「小夜しぐれ(みをつくし料理帖)」、高田郁
「剣岳・点の記」、新田次郎
「魔法のことば」、星野道夫
「酒にまじわれば」、なぎら健壱
「死の壁」、養老猛司
「Story Seller」、 新潮社編集部


「家族の言い訳」、森浩美
「こちらの事情」という、本編の続編のような位置づけの本を先に読んでしまっていたので、この本のお話しもすんなり心に入ってきた。安い歌謡曲のようなスト-リ-と言えなくもないが、そこにはある種の「家族だから言えない、家族だから言ってしまう、家族だから許せない、家族だから...」という共感ができるものがある。人間皆それぞれ、自分の価値観に基づいて生きている。他人であれば、価値観の違いは単なる違いとして気にもかけないだろうが、いっしょに暮らしている家族との価値観の違いは、時として許しがたいものと感じてしまう。母親にきれいになってもらいたいと幼い息子が無理をして貯めたお金で買った口紅。母親はそれを一度つけたきりで、「もったいないから」とずっとお守りのように持っていて、年老いてこの世を去ろうとするとき、棺桶の中に入れてくれと頼む。どちらにも理があり心がある。河島英吾の「てんびんばかり」という歌を想い出しす。

>どちらも もう一方より重たいくせに どちらへも傾かないなんて おかしいよ


「フェルマーの最終定理」、サイモン・シン
3世紀以上に渡って証明することができなかった、中世の数学者フェルマーの書き残した数学の定理。フェルマー自身は証明済みとしているが、単に書く余白が十分でないという理由でその証明は残されていない。フェルマーが残した定理のほとんどが証明される中、幾多の数学者が挑み、証明することのできなかった最後に未証明の定理、それがフェルマーの最終定理だ。この本は、数学の歴史的考証から始まり、フェルマーの最終定理の出現、そして、それが数年前に証明されるまでのエピソードを語るノンフィクションである。この本は、数学のことを扱っているにもかかわらず、数式や関数の難しいことは何もわからないでも読める歴史物語だ。そしてお話の中には、素数、完全数、友愛数、など楽しい話もたくさんある。

北海道で黒い羊を見たとする。その時、私たちは何と言うだろう?
  1. 「北海道の羊は黒いんだね」
  2. 「北海道には、黒い羊もいるんだね」
  3. 「北海道には、少なくとも一頭以上の黒い羊がいるんだんね」
もし、3番目の答えに違和感がなければ、この本は読むに値すると思う。

中学・高校と私たちはたくさんの証明問題をやらされた。実際、証明ができた時、それは、感動的でさえある。なぜなら、数学的証明は、一点の疑問を挟む余地のない、完璧なものだからだ。現実社会において、そのような一点の曇りもないことなど、ほとんど存在しない。どこか、不確かさや、あやふやさが存在する。数学の世界は、すきっと晴れ渡った秋空のようである (もし、理解できれば...)。


「小夜しぐれ(みをつくし料理帖)」、高田郁
シリーズ5冊目。ますます安定し、そして少しどきどきさせてくれる。安心して読める本だ。身分の違い、年齢の違い、貧富の違い、それを乗り越えさせる「おいしいごはん」の力。改めて、「食べる」ということが人生の根幹であることを思い知る。動物は生きるために食べる。人間はさらに、満腹感だけではなく、食べるということから幸福を感じることもできる。「おいしい」、その一言が相手を、自分を幸福にする。桜の季節、花見の宴にあえて出された菜の花づくし。鮮やかな黄色が緑が目に浮かぶようである。


「剣岳・点の記」、新田次郎
タイで知り合ったSさん(妻の友人)が、ソウルの我が家へやってきた。話の中で、Sさんが、俳優・香川照之の歌舞伎転身も話をし、彼が出た映画「剣岳・点の記」がとてもよかったので機会があれば是非見るようにと勧めてくれた。その翌週、父の49日の法要で、実家に帰ったとき、父の本棚に、「剣岳・点の記」を見つけた。ずいぶん古い本で、確か一度読んだ記憶があるようなないような...その横には、「八甲田山 死の彷徨」(新田次郎)もあった。何かの縁だと思って、その本をもらって帰り読んだ。新田次郎にはいい本がたくさんあるが、私にとっては過去の人で(以前たくさん読んだ)、最近著者の本から遠ざかっている。簡潔で切れのよい文章が、困難な「剣岳」への登頂を綴っている。陸軍からの圧力、山岳会との競争意識、地元の山岳信仰との軋轢、傲慢な県職員のいやがらせ、そして天候の壁...様々な要素が、地図の測量隊が「剣岳」の頂上に立つ障害となる。そして苦労の末「初登頂」だと思っって立った山頂には、数百年前のものであろう朽ちた剣などがあった。この物語は、「剣岳」の困難さとともに、「初登頂」の意義も考えさせられる。お気楽ハイカ-の私には、「初登頂」など考えもしないことだが、クライマ-たちにとって、名を残すと言うことは大きな意味があるのだろう。


「魔法のことば」、星野道夫
このところ、星野道夫の本を頻繁に読んでいる。彼のアラスカでの生活に基づいた話は、私を魅了してやまない。「魔法のことば」は、彼の講演集である。彼はいろんな所に呼ばれて講演している。そしてこの本は、彼の没後、彼の意思とは無関係に関係者によって出版されたものだ。彼がこの本を出したかったかどうか、私にははなはだ疑問である。
関係者の前書きに、この本は一度に読まず、一編ずつ、一週間くらいの間をとって読むのがいいとあった。何のことかわからなかったが、読み始めてすぐにその意味がわかった。彼の講演はいろんな場所でしているので、そのたびに聞く人は違う。しかし、講演内容には大きな重複がある。10回以上の講演を集めたこの本の、各講演の内容の大元は同じである。それはまるで、同じ歌を同じ歌手が、多少違うアレンジで、10回録音した物を集めたCDと言うようなものである。そんなCDを買うのは、よほどのファン以外になく、CDそのものの客観的価値は、決して高いとは言えないだろう。お勧めにしたがって、ちょっと時間を置きながら読んだが、さすがに5回目くらいでいやになった。どんなにいい話でも、5回聞かされたらいやになる。どういう経緯でこの本が出版されたかわからないが、残念ながら、「利益」の追求以外に出版理由は考えらない。その意図はなくても、著者を貶める結果になっているのではないかと思う。残念だ。


「酒にまじわれば」、なぎら健壱
なぎら健壱による、酒に関する与太話エッセイ。大変面白く、後に何も残らないのがいい。私にとってなぎら健壱は「葛飾にバッタを見た」(だったかな?)を歌った人であり、それ以外の何者でもない。彼のことはほとんど知らないが、その名を聞くと、なぜか佐藤蛾次郎のヴィジュアルがイメージされる。そして、小室等のライブ・レコ-ドに

>そのころ 陽水のギャラが1万で僕が2万でした、はっきり言って倍です
>まあ、陽水君もがんばってくれたまえとか言ってると ほんとうに頑張っちゃって
>一時は1000倍、1000万というギャラを取るようになって
>それでこのニュース(陽水が麻薬で捕まった事件)...
>「うぇっ、陽水が捕まった? なんてことをするのかな」という言葉の裏腹に...
>「ざまあみろ」、これは働くもんでございます人間として...

というMCで参加?している人である。なぎら健壱恐るべし。酒を飲むのもほどほどにしなければならないと深く思う今日このごろである。


「死の壁」、養老猛司
「バカの壁」にはあまり感銘を受けなかったが、この「死の壁」は興味深く、とても納得のできる話だった。
何かをしでかして、「あの時の私は本当の私ではなかった」などという在りがちなコメントを痛烈に論破する。あの時の私も本当の私であり、今、「あれは本当の私ではなかった」という自分もほんとうの私なのである。自分さがしに行こうとするのも本当の私なら、さがしたあと何もなかった嘆くのもほんとうの自分である。
私は、「死後」というものを観念的にとらえられない。そこから続くものはなく、いわゆる「The End」なのだと思う。死後の世界とかいうものは、生きているものが勝手に想像する世界であって、それは存在しないと思っている。死んだ人は、なくなったのであって、その人自体の存在はなくなる。ただ、その人が存在したという、他の人の記憶や記録のの中にのみ、存在し続けるのだと思う。
著者は「死」のタイミングは、社会的なもの(それぞれの社会が容認している概念)が決めるという。それは、「死んだ人」にどのタイミングで「村八分」を宣告するかを決めるル-ルのようなものだと。戒名を与えて、生きていた時と違う名前で同じ人のことを呼ぶことは、すなわち自分たちの社会から死者を村八分にすることなのだと...だから、脳死の問題も医学的には決められず、社会的に決める事柄だと。
もう一度読み返したい本である。


「Story Seller」、 新潮社編集部
伊坂幸太郎、近藤史恵、有川浩、米澤穂信、佐藤友哉、道尾秀介、本多孝好の7人の作家によるオムニバス、中短編集。どの作家の作品も斬新で楽しい。中でも有川浩の「スト-リ-セラ-」は、ありえない内容ながら、楽しく読めた。「阪急電車」と同じような温度を感じる。この様な本を買って、読んだことのない作家に出会うのもいい。近藤史恵、米澤穂信、佐藤友哉は始めて読んだ。米澤穂信はまた別の本を買いたいと思った。

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9月の読書、「沈まぬ太陽」「凍」など, [本]

「読書の秋」という。はたして太陽暦の9月が「秋」なのかどうか。特に地球温暖化で季節が乱れがちな今、「読書の秋」はお彼岸が過ぎた頃から始まるのだろう。地球温暖化といえば、昨日まで「CO2削減」を緊急の絶対的正義として叫んでいた人たちが、今や「脱原発」を究極の正義として掲げ、「火力発電」の復活推進をも容認しようとしているのは、甚だ理解が難しい。「脱原発」の主張は理解し共感できるが、一貫性や実現性を欠く言い分には説得力がない。「自然エネルギ-」がいいと主張するなら、その開発・活用のために、お金を出して(税金を払って)投資しようという話に何故ならないのだろう。電力は使うから、作るのであって、作るに当たっての費用を使用者が支払うというのは、どうにも曲げられないル-ルだと思うのは少数派なのだろうか。「私使う人、あなた発電する人」的態度は、将来の世代に借金と環境悪化を押し付けているだけのように思える...って、なぜか本とは関係のない話になってしまった。


「つきのふね」、森絵都
「名人に香車を引いた男(升田幸三自伝)」、升田幸三
「からだのままに」、南木佳士
「凍」、沢木耕太郎
「百」、色川武大
「沈まぬ太陽」(全5巻)、山崎豊子


「つきのふね」、森絵都
「風に舞いあがるビニールシート」や「カラフル」で、この著者の本が好きになった。この「つきのふね」も、よかった。年を重ねるにつれ涙線の緩くなってきたおじさんを泣かせる。中学生という思春期の真ん中の年頃は、みんながとても苦しい。アンジェラ・アキの歌を思い出すまでもなく、誰もが、「負けそうで、泣きそうで、消えてしまいそう」になる。子どもから大人への道と言ってしまえばそれまでだが、地図を持たず、その道を歩いたことのない中学生には、深い森に迷い込んだように途方にくれる。物語の登場人物それぞれみんなが、迷い道を手探りでもがきながら進み、そして進ことをやめようとさえ思う時を迎える。おじさんを泣かせたのは、主人公、さくらのたった一言。ある事件をきっかけに、顔を合わせることも話すことも避けるようになった親友への、長い長い苦悩の後、絞り出した悲痛なたったひと言。

 > 「会いたい」

平凡な言葉なのに、心に深手を負った2人の中学生にとって、相手を求める心の叫び。心を揺さぶるひと言。このひと言のために、このお話があるように感じたのは私だけだろうか。


「名人に香車を引いた男(升田幸三自伝)」、升田幸三
鬼才と言われた将棋の名人、升田幸三の自伝。15歳で名人を目指し、お金も持たず家出をした著者の半生は痛烈だ。数々のエピソ-ドで棋界を揺るがせた升田幸三。過去の定跡にこだわらず、「新手一生」、自分の一手を追い求める姿は鬼気迫る。ただ、その天才が傲慢に見える時がある。自分が負けた時は、「ポカ」、「ミス」、「体調不良」などの言い訳が重ねられ、自分が勝った時は、すべて実力通り...すごい人だと思うが、こういう自己評価の高さには嫌気がさす。勝負の世界であるから、そのような気位の高さも必要なのだろうが。著者には申し訳ないが、私が一番興味をそそられたのは、彼が名人(木村義男、大山康晴)に香車を落として勝った場面ではなく、阪田三吉との関わりあいだった。「王将」の歌や芝居の実在のモデルである阪田三吉の人となりは興味深い。著述から浮かんでくるのは、村田英雄のようなのごっつい感じの人ではなく、あくまでも私の想像として、アホな部分を除いた坂田利夫のような人である(ちょっと違うかもしれない)。羽生七冠のあと、今の将棋界がどのようになっているのかは知らない。個性がきつい人は、魅力輝く人にもなれば、大の嫌われ者にもなる。


「からだのままに」、南木佳士
非常に心地良いエッセイに出会った。私にとっては、「阿弥陀堂だより」の原作者としての位置づけだった南木佳士(他の本も少しは読んだが)。淡々と心に浮かぶことが、著者の積みかさてて来た時間と供に語られる。若い人には、退屈なエッセイだと思うが、ほぼ同年代の私の心には、気持ちよく沁みこんでいった。著者が生まれ、そして、現在も住む東信州佐久平。山に囲まれた風景が、目に浮かぶようだ。登山に関する思いも、私の思うことと共通部分が多く、それゆえうまく、私の頭の中で共鳴してくれるのだと思う。
多くの人の死と向かい合わなければならない、地方の総合病院での勤務。やがて、それが引き金となってパニック障害を起こし、うつ病になり、そして肺を病む。切れた指を一針縫うのを見て気分が悪くなったり、注射針が自分の身体に刺さるのを見ることの出来ない私には、医者と言う職業は考えられない世界だ。「阿弥陀堂だより」で、パニック障害を起こし信州の山中へ越してくる主人公の女医は、まさに著者本人であり、阿弥陀堂を守るおばあさんは彼の育ての祖母である。
「死ぬまで必ず生きているからだ」という言葉が印象深い。ここで、心が先か、からだが先かという議論をするつもりはない。でも、「心のままに」ではなく、著者の言う、「からだのままに」生きるということは、とてもわかりやすい表現だと思う。からだが「無理だ」と言った時は、素直にやめた方がいい。かなり頭でっかちになってしまったがだが、私たちも命を持った生物なのだから。


「凍」、沢木耕太郎
沢木耕太郎の本を読むのは久しぶりだ。この本は、長い間私の本棚で待ってくれていたような気がする。「ギャチュンカン」、聞いた事のない山が、このノン・フィクションの舞台だ。7,952m、世界で14峰あると言われている8,000mを越える山々の陰でひっそりとそびえる、しかし、とてつもない山。その山に挑む山野井夫妻を描く、沢木耕太郎らしい、力強いノンフィクション。夫妻と言っても、元々は単独の秀でたクライマーたち。名声を求めず、富を求めず、ただ美しいルートを描いて山に登ることを愛する彼ら。スト-リ-の最後で、彼らは究極の自由を手に入れたと結ばれている。自由とは何なのか。それは、他人の評価を期せず、他人からの金を期せず、自分の期する山を自分の期する方法で登っていくこと。あまりに壮絶で、あまりに美しい彼らのクライミングにはどんな言葉もふさわしくないだろう。凍傷で、すべての手の指を失った妙子。彼女の姿を見たことはないが、その純粋な姿は、想像するのも難かしい。それに比べ、泰史、男は、少し弱い。もちろん、彼も私たちに比べればとてつもなく強いが、所々で見せる彼の気持ちがすっと細くなるところはよくわかる気がする。
このノン・フィクションを読んで、生きる意味を考えずにはいられない。人は何のために生きているのか、それは、人の数だけ違う答えがあり、たぶんそのすべてが正解だろう。でも、自分の責任で自分の人生を生き、他人に何も求めない行き方は、過酷で誰にでもできるものではない。腰を掛けるスペ―スもない7,000mを越える氷壁でビバークを重ねた彼らは、何を見、何を考えたのか。数年後、自分たちが残したであろうゴミの回収だけのために、地獄のような場所再び訪れることを当然のようにする彼ら。自由である代賞はあまりに高いということを私たちは学び、簡単に自由を口のするのがはばかられる。自由は責任なしには得られないということを、肝に銘ずるべきである。感動の一編だ。

 
「百」、色川武大
色川武大の本を読むのは確か2冊目だ。この「百」を読み始めて、前回の本はけっこう前半で投げ出してしまったことを思い出した。そう、この作家は苦手なのだ。学習能力のない私である。この学習能力のなさは、単純に、この著者が別のペンネームで出している本は好きということと関連している、色川武大と阿佐田哲也、同一人物なのに、その作品群は書かれたペンネ-ムによってはっきりと違う性格を持っている。「麻雀放浪記」に代表される阿佐田哲也の本は、すごく面白い。なのに色川武大の方は、内面的精神的考察に終始し話に救いがない...しかし、よく読んでみると、「麻雀放浪記」の主人公、「坊やテツ」は、まさに色川武大その人である。その性格の背景は、今回読んだ「百」の中に繰り返されていたように、彼の生まれつきの肉体的コンプレックスや、父親との複雑な精神的関係などによって醸成された、暗くて深い内向きの思考にある。そう理解して読むと、色川武大と阿佐田哲也の作品は、パズルをはめ込むようにぴったり合うのだ。しかし、自分に言い聞かせておこう、決して色川武大の本を読んではいけないと。私には、この本を興味をもって読む資質がない。
 

「沈まぬ太陽」(全5巻)、山崎豊子
まず、DVDを見た。3時間を越える大作で、途中10分間のインタ-ミッションがあった。そして、その後、全5巻の原作を読んだ。どこまでが真実でどこまでが虚構なのかよくわからないが、「日本航空」やその関係者を取材し、事実を小説風に書いたとある。「日本航空」の労務・組合問題を含む社内の問題、薄汚い政治との癒着、500人を超す犠牲者を出した御巣鷹山の747墜落事故、そして人間のエゴ・欲望・保身、正義の無力さ...見ていて、そして読んでいて、やり切れなさを感じずにはいられない。従業員一人一人に責任はないだろうが、「こんな会社」のために税金が使われたり、事故で乗客が「殺されたり」するのには怒りを禁じえない。元々私は、JALにはほとんど乗らない。最大の理由は、その会社が「親方日の丸」の会社であったという点。企業文化やその体質が変わらない限り、その会社には何の改善の期待も出来ない。本の中にも何度も書かれた言葉だが、「こんなこと、一般の民間企業ではありえない」ということが山ほど例出してある。社内監査制度も全く機能せず、決定権やそれに伴う責任の所在もあきらかではない。薄汚いの運輸省の役人ども(こんな書き方は適切ではないと承知しているが、この小説に登場する役人はすべて薄汚い)、そして、利権だけが目当ての恥知らずの国賊ともいえる政治家たちに(この書き方も非常に良くないとは思うが、この小説には一人として国のことを思う政治家は登場しない)、報道の役割を忘れ自分の都合で記事を書く薄ら頭のマスコミ(これまた、よくない言い方だが...)、自分の出世利益だけを優先する日本航空経営陣・組合幹部、それらにいいように弄ばれ食い物にされている「日本航空」という砂上の楼閣。この小説やDVDに対して、「日本航空」や該当政治家から、名誉毀損や営業妨害の訴えはなかったのだろうか。「日本航空」は氷山の一角で、無くすと言いながら一向に姿を消さない政府特殊法人も似たようなものなのかも知れない。問題は、民間企業では当たり前の、「透明性」と「責任の所在」の欠如だ。そして。この小説にほぼ実名で書かれた政治家たちの弟子の様な存在の、某政党の元代表が、今尚、裏献金をもらったもらわないの低俗なことに関わっているのには、腹が立って仕方がない。震災で大変な目に合っている方々には申し訳ないが、この政治家を国政に送るのを是非やめてもらいたい。

映画の主演は渡辺謙。適役だと思う。残念なのは、準主演の三浦友和。私は、三浦友和に何ら含むところはないが、この映画でも彼は悪人になりきれていない。本人は成りきっているのだろうが、悪さの迫力がない。どうしてもさわやか笑顔が非情な悪人の顔の後ろに見えてしまうのだ。先に映画(DVD)を見てしまったので、本を読むとき、渡辺謙や三浦友和、石坂浩二の顔がちらついて仕方なかった。途中、個人的に辛いことがあったが、その辛さから目を避けるためにも、5巻を一気に読んだ。本を読み終えてため息が出たのは久しぶりだった。

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