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父との別れ [家族]


Day1
9月15日夜、9:30、「10分前に...」、 訃報が入る。
前夜の知らせには、急を要する様子はなかったのに。
窓から外を見る。
いつものように車のヘッドライトが列を作っている.
外を見ながらスコッチを飲んだ。
飲みなかったわけではない、そうするしかないような気がした。

Day2
朝、会社へ行き、チケットを依頼し、急ぎの仕事を片付ける。
午後、飛行機に乗り、父の元へ帰る。
穏やかな顔だった。「苦しまなかったようだ」弟が言う。
最後の時間をいっしょに過ごせなかったけど、1ヶ月前に病院のベッドの上で父の口にプリンを運んだときから、その覚悟は出来ていた。

Day3
朝、葬儀社の人が来て、その後の段取りを説明してくれる。
詳細はすでに弟が決めてくれていた。
父が無言で家を出る。
寝台車がクラクションを鳴らす。
葬儀会場に入る。
家族控え室。
父の身体をきれいにしてくれる儀式。
気持ち良さそうだ。
親戚が集まってくれる。
長い間顔を合わせなかった人たちも多い。
坊さんがきてお経を読む
理解できない言葉、その厳かさが、別れを揺るぎないものにする。
親戚が帰り、控え室に母と、弟と弟の家族、私と妻と娘。
やがて弟の子供たちも帰る。
食べて、飲んで、話す。
これが通夜というものか。

Day4
近くの学校から運動会らしい音楽が聞こえる。
前日は雨で警報さえ出ていたのに。
葬儀の前、父に話しかけてみる。
「これでよかったんやね。したいことはしたね。あとは向うでのんびりしてな」。
親戚が集まり、葬儀が始まる。
挨拶で父と歩いた山のことを話す。
言葉が詰まる。
棺に花を入れる。
たくさん入れる。
母が泣く。
伯母が母を抱きしめる。
出棺。
父が煙となって昇っていく。
骨を拾う。
「ちょっと小さくして入れてください」、骨に圧力を加えると、簡単に崩れた。
父がかつて住んでいた肉体はカルシウムの破片となり、壷に収まる。
カルシウムの入った壷、聞きなれない名前の書かれた白い木片、笑っている写真。
それだけになって父は戻る。
初七日の法要。
小さな祭壇に父の分身が並べられる。
「これでよかったんやね。したいことはしたよね。あとは向うでのんびりしてな」、もう一度言う。
たくさんのことを親戚の人に助けてもらった。それらが心底ありがたく、普段の不義理が恥ずかしい。

Day5
父のいない朝がまた始まる。
「49日の法要に出すお菓子を考えなくては」、母が言う。
何のことだ。
どうでもいい。
ほんとうにどうでもいい。
しなくてはならないだろう手続きが山のようにある。
それらもどうでもいい。
ほんとうにどうでもいい。
でも、それらのことを考えている方が楽だから考えよう。
祭壇に置ききれなかった花を墓に持っていく。
もうすぐ彼岸だ。
墓の掃除もしておこう。
草を抜き、水をかけ、線香を供える。
この墓はどうなるのだろう。
ほんとうに父の壷をこの墓に入れてよいのだろうか。
この墓をどのように守っていけばいいのだろう。
私はここに入るつもりはない。
そして1日が終わる。
お酒を飲みすぎている。

Day6
朝から諸手続きのためあちらこちらに電話をかける。
今日1日、できるだけのことをしておこう。
「49日の日程を早くお寺と決めて欲しい」、母が10分おきに言う。
「そんなに言うなら、自分で電話すれば?」、声が尖る。
言わなくても良いセリフが出てしまう。
市役所に電話すると、「部署が違うから」と4つの部署に電話を回される。
笑った。
市役所で戸籍謄本を取ると、「まだ記載ができていませんから3日後にきてください」という。
死亡届は、前の週に出されていたのに、役所には、オンラインとか、リアルタイムとかいうコンセプトはないらしい。
後日また弟に来てもらわなければならない。
入院費用を病院の窓口で支払い、葬儀社に行って葬儀費用の清算をする。
自分がしたこと、これから弟がしなければならないことをノ-トに書く。
夕方、小さな母を残して、家を出る。
台風15号の影響で道が混んでいる。
高速道路が通行止めになり、迂回路の国道2号線も通れない。
ずっと遠回りをして、20kmを4時間と少しかけて、妻の実家に向かう。
乗っていたレンタカ-はその日返す予定だったが、営業時間内に間に合わなかった。
これくらいの罰は、これが罰なら、受け方がいい。

Day7
台風に備え雨戸が閉めてあったらしく、朝、目が覚めると暗かったが、時計を見るともう9時を回っていた。
三宮で買い物する気にもならず、すっと関空へ行く。
使用機の延着で、30分ほど出発が遅れる。
空港の売場には、法要に使えそうな菓子がたくさん並んでいる。
私はソウルに飛んで、まったく違う世界に逃げ込んだが、母と弟は現実と向かい合う。
「お父さん、これでよかったんやね。したいことはしたよね。あとは向うでのんびりしてな」、もう一度言う。
「お父さん、49日の法要なんてして欲しいの?お経、わかってんの?それがないと向うへ行かれへんの?お母さん大分まいってるで。お菓子なんてどうでもええんやろ?」。
「ほんまは、そんなもん、何もいらん。でも、そうした方がお前らが楽やろ?適当にやっといて」
父はすでにのんびりしているようだ。

Day8
「お疲れが出ませんように」、葬儀の後、親戚のいとこたちが声をかけてくれていた。
その疲れが出た。
気力が湧かない。
会社を休んだ。
休むなら、もう1日、日本に居ればよかった。
日本に居たら、気力が尽きて倒れたかもしれない。
でも母と弟は日本にいる。

Day9
会社に出た。
たくさんの悔やみの言葉をもらう。
香典ももらう。
机に向かうが簡単な作業以外する気になれない。

Day10
秋の気配の南漢山城を歩く。
風が涼しく、気持ちいい。
山が好きだった父と歩いているようだ。
何をしていても、ふと、父のことが思われる。


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結婚式の涙 [家族]

少し前の話である。

7月9日、姪(妻の姉の娘)のMちゃんの結婚式に出席した。日本の結婚式に出るのは、よく覚えていないが、25年ぶりくらいだと思う。姪は、近い親族では私たちの次の世代の結婚第1号である。

早朝まだ涼しい雨のソウル(キンポ空港)を発って2時間足らずで着いた関西空港は、想像をはるかに超える暑さだった。この猛暑の中、節電を強いられ、それを懸命に守っていこうとする日本人の姿に驚嘆する。飛行機の中、窓側の席へ入る人を通すために立ち上がって通路へ出ても一言もない日本人旅行客たちを見て、「日本人の礼儀正しさや謙虚さの後退」に若干の不安を持ちかけていた私だが、節電への姿勢には頭が下がる。結婚式の行われた姫路は、大阪と変わらぬ暑さだった。前日から帰国していた妻が、ス-ツ一式を式場まで運んでいてくれたので、私はポロシャツに破れたジ-パンという結婚式にはふさわしからぬ服装で式場に着いた。係りの人が、着替えはこちらで...と案内してくれた更衣室には、やはり普段着で来て、式場で礼服を借りた人など5~6人が着替えをしていた。シャツを着て礼服を着てネクタイを締め、胸にハンカチを差す。ク-ラ-が効いているというのに、すでにじんわり汗がにじみ始める。そんなところに「娘が式の時間に間に合わないかも」という連絡が入った。何をしているのだろう。

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新郎新婦の登場。晴れやかなカップルを見るのはとてもうれしいことだ...が、横では、まだ式も始まっていなにのに、義母が涙を流している。「Mちゃん、こんなにきれいになって...」。祝福の涙か、成長を喜ぶ涙か、新たに旅立つ孫(家は近いが)への惜別の涙なのだろうか。一同、チャペルに移動して人前結婚式。「人前」は「じんぜん」ではなく、「ひとまえ」と言うらしい。なぜチャペルでキリスト教に関係のない結婚式をするのか疑問だったが、よく見ると、室内には十字架やキリスト教関係のものは一切置かれていなかった。ステンド・グラスはモダンなデザインだが、宗教色はなかった。式場側も価値観の多様化に対応するため、「何にでも使えるチャペル風」の施設を作ったのだろう。望めば、ここで仏式や神道の結婚式もできる(セットアップさえすれば)と思うが、そう望む人がいるかどうかは疑わしい。新郎が一人入場して前方ステ-ジ(祭壇とは言わないのだろう)で待つ。結婚式で男性は、「男は常に女の引き立て役だ」ということえを激しく学習させられる。新婦が父親に手を引かれ、新郎の5倍くらいの時間をかけて入場。私はそんな役(新婦ではなく、新婦の手を引く父親の役)は絶対したくないと思い、そのことを式の後で娘に伝えた。娘は私の所有物ではなく、全くの自由意志で行動すべきである。それをあたかも私から誰かに引き渡すなどと言う行為は、非人道的であり国連憲章および日本国憲法に違反する...というのは建前で、本音では、単に娘の手を誰かに託すというような行為をする自信がない(娘の手を離さない、離せない、泣いてしまうなど)。ステ-ジで新郎新婦は、誓いの言葉を読み上げ、宣誓書にサインする。指輪を交換し、キスをする...神父/牧師のいないキリスト教結婚式である。

係りの人によって、参列者はチャペルの前で道の左右両側に並ばされる。その道の先には、幸福の「鐘」がある。フラワ-・シャワ-を浴びながら、新郎新婦が通っていく。そして、2人で、「幸福の鐘」を高らかに鳴らす。当然のように、和田アキコのあの歌が頭の中から聞こえてくる...「あの鐘を~ 鳴らすのはあな~た...」。いつの間にか、娘が横に立っていた。「式には間にあったんか?」、「うん」、うなずく娘の目は真っ赤で、涙を大量に流していた。「どうしたん? 蜂に刺されたん? お金でも落としたん?」、「だって、Mちゃん見てたら泣かずにいられへんやん。Mちゃん、すごすぎる...で、ハンカチ忘れたし...」。仕方がないので、買ったばかりのスヌ-ピ-のハンカチ...ではなく普通のハンカチを娘に貸してやった(それは後ほど絞れるほど濡れた状態で帰ってきた)。

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そのまま一同披露宴会場の前まで移動して全体の記念写真。チャペルを出てからここまで約20分、猛暑の太陽の下、厚手の礼服を着て、「冷たいビ-ルを飲みたい指数」がかなり上昇していた。披露宴の鉄の掟、乾杯の発声があるまで、何も口入れてはいけない。、「冷たいビ-ルを飲みたい指数」はうなぎ上りだったし、「主賓の挨拶を聞きたくない指数」は挨拶が始まってから急上昇した(幸い、仲人は立ててないらしく、その挨拶はなかった)。結婚式の主賓の挨拶、久しぶりに聞いたが...大変残念な出来だった(あくまでも私の主観)。結婚式のあいさつなのか、会社の紹介なのかよくわからなかった。反面教師として参考になった。でも、後で考えると、仲人の挨拶がなかったので、ひょっとして主賓は新郎の紹介も依託されたのだろうか。そして、何故か新郎の紹介が、新郎の会社の紹介に昇華されてしまったのだろうか...新婦側の主賓の挨拶は標準的なものだった。ようやく乾杯、ああ、シャンパンがおししい。そのあと自発的に冷えたビ-ルを飲み、人心地ついた。そして自発的に白ワインを頼んだ。友人の祝辞は、聞いていて楽しかったが、料理を食べるのに忙しくて、半分しか聞いていなかった。新婦がお色直しに退席するとき、一番大切な人と会場を出るという趣向があり、新婦のMちゃんは、まっすぐ私のテ-ブルにやってきた。「たくさんお年玉やいろんなお祝いを上げてきたから、やはり叔父さんが大切」...なわけはなく、同じテ-ブルの義母(Mちゃんからすれば母方の祖母)の手をとった。そして2人(Mちゃんと彼女の祖母)で、声を詰まらせて、大量の涙を流すのである。同じテ-ブルにいた妻も娘も泣いていた。どうしたことなんだろう、この涙は。ひょっとして私が知らされていないだけで、Mちゃんは明日カムチャッカにでも旅立つのだろうか。

お色直しの間に、新郎新婦の写真がスクリ-ンに映された。小さいときから成長を追った写真である。Mちゃんのそれが何枚か映され始めたとき、突然、私の目にも涙があふれた。小さいころのMちゃん、Mちゃんと遊んでいた当時の息子や娘の姿が走馬灯のように思い起こされる。みんなの涙の正体はこれだったのか。悲しい涙ではなく、かと言ってうれし涙でもない。Mちゃんという一人の人間の成長の過程を思い、その周りにいたたくさんの人、その周りで起こったたくさんのエピソ-ド、それに少しは携わった自分たち、それらがみんな結実して、本日このとき、ウェディング・ドレスを着たMちゃんの姿になっている。圧倒的な感動の涙だ。娘にハンカチを貸してしまったことを公開しながら、私はスクリ-ンに映ったMちゃんを見るために涙をぬぐった。「花嫁が両親に送る手紙」...まさか、そういうイベントが今でもあると思っていなかった。Mちゃんの読む手紙を聞きながら、私はMちゃんの両親を見つめていた。彼らの顔を見ていると、また涙が溢れた。


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先日、義父の3回忌があった。誰も泣かなかった。その2年前には葬式があった。みんな泣いた。でも、あのときの涙の量と、Mちゃんの結婚式で流れた涙の量、比較すべきものではないが、圧倒的に後者の量が多い。かくして、感動の結婚式が終わった。結婚式がこんなにも感動的なものだとは思わなかった。30年近く前の自分のそれよりも感動した気がする。もちろんそれは、時間によって記憶が希釈されたからではあるが。そして思ったのは、万が一、自分の子供たちが結婚するというようなことになった場合、その式に出るのは大変危険だということである。泣きすぎて脱水症状になるやも知れない。できるなら、それを避けるために、身内だけのハワイアン・ウェディング、往復航空券はファースト・クラスで子供持ちというような形態を望みたい。

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父の入院と帰国 [家族]


「父が熱を出して入院した」と弟からメールが入った。「だから、帰って来い」という趣旨は無く、単に「そういうことになっている」という言う連絡のメ-ル。去年に続き2度目の入院だ。メールを読んだとき、「また弟に負担をかけて申し訳ないな」という気持ちを強く持ったが、「すぐに帰ろう」ということは頭に浮かばなかった。だが、2時間ほどして、「帰った方がええんとちゃう?」という感情が湧いてきた。幸い?8月15日は韓国の祝日(光復節、日本の植民地支配から解放された日)で、3連休だ。問い合わせると、翌日の飛行機のチケットが取れた。1日有給休暇をくっつけて、3泊4日で急遽帰国を決める。日本での足として、レンタカ-を予約しようとしたが、お盆のことで、どこも空きが無い。あったとしても、ベンツとか2トントラックである。ちょっと不便だが、ようやく隣の市のレンタカ-屋で空きが見つかり、さっそく予約する。

関空から空港バスで三宮に出て、JRで加古川に向かう。「駅から徒歩10分」とあったレンタカ-屋。わずか10分、されど10分である。カナダで雪にあいフリ-スを着る生活を2週間した後。毎日雨続きで夏の来ないソウルで2週間、まったく暑さや太陽の免疫ができていない身には、日本の真夏の太陽光線がとても厳しい。青息吐息で、レンタカ-屋にたどり着く。実家に着いたのは午後2時半、家の玄関には、来客と思われる人たちの靴があった。弟から、「ケアマネ-ジャ-やヘルパ-の人たちとの話し合いがある」と聞いていた。来客は、ケアマネ-ジャ-やデイケアセンタ-の人、ヘルパ-の人など4人だった。今日にいたる実情をほとんど知らず、日本の介護制度にもまったく無知で、しかも話の途中にやってきた私は、何かを言える立場にないので、基本的に弟に対応を任せ話を聞いていた。今後どのようにしていくのかの提案があった。それらは、すべて理にかなったもので、とてもありがたい提案だった。私が驚いたのは、来てくださった人たちすべてが、みんなやさしく穏やかで、介護対象者の父だけでなく、その世話をしてきた母の身を案じてくれていたことだ。何も知らないのに、日本の介護制度をややななめ上から見ていた私はとても恥ずかしく思った。

話し合いが終わり、弟が帰ってから、父のいる病院へ向かった。ベッドに横たわる父。痩せた手。身体に繋がれた管。その父が、私をじっと見る。父と正面から目を合わせることなどそれまでほとんどなかった。私から視線をまったく動かさない父。私もじっと父の目を見る。そしてその父の目が、穏やかでやさしく、そして清らかである(ように見えた)ことにとても動揺した。父が視線を外さないのは、そうする意志があってか、それとも身体を動かすことがあまりできないためか...私は、言葉を失った。父は本が好きで、いつも本を読んでいた。何でも知っていた。山が好きで、よくハイキングやスキ-に連れて行ってくれた。私が中学に入った年、乗鞍岳と上高地に連れて行ってくれたことは今でも忘れない。考えれば、私が読書を好み、山を歩くのが好きなのは、まったく父と同じである。影響を受けたという意識はないが、そういう素養を植えてくれたのは、間違いなく父である。お酒を飲んだとき意外はあまりしゃべらないので、父と深い会話をした記憶はほとんど無い。背中を見て育った。

前回の入院のとき、プリンやコ-ヒ-ゼリ-を喜んで食べたので、プリンを1つ買って持っていった。前回は、しっかり自分で食べたのに、今は自分でスプーンを動かすことができない。生まれて初めて父の口に食べ物を運ぶ。父が私の手から、プリンを食べる...視線に動揺したように、この状態にもひどく戸惑いを覚えた。帰るというと、「ありがとう」と言い、軽く手を上げて見せた。そんな病院訪問を3日繰り返した。残念ながら、病状から推察して、父の状態がよくなり、また自分で自分のことができるようになる可能性はあまり高くない。母は、病院から帰ってきたときのことを言うが、弟と私は、父が退院できたとしても、完全看護体制にある施設に入ってもらうのが一番だと考えている。母は父を看護できるような状態ではない。母自身が看護を必要とするレベルに近づいている。

「海外在住」、それが言い訳になるとは思わないが、両親のことはその近くに住む弟が主に見てくれている。私は年に何回か帰ったとき、最低限のことをするだけだ。今回、父の顔を見て、少ない言葉を交わしたが、これがいつまでも続くとは思えない。日本人の平均寿命は「人間50年」と言われたときから、30年ほども延びている。寿命が延びることによってできることがたくさん増えたが、一方、寿命を延ばすための辛さ、寿命が延びたための辛さも増しているように思える。ベッドの上で動かない身体をもてあましながら、86歳の父は何を考えているのだろう。

病院からの帰り、お墓参りに行った。お盆である。雑草を抜き、水をかけ、花と線香を供える。線香になかなか火がつかず苦労した。私は仏教徒ではない。というより仏教の教えをほとんど知らない。お布施の金額により戒名が異なることなどに象徴されるお寺(葬式産業)には大きな懐疑心を持っている。両親は元気な頃、般若心経を唱えたりしていたので、その葬儀は仏式ですることになるだろう。そして骨はこのお墓に入ることになるだろう。私の意志より両親の考えが優先されるべきことだ。でも、自分の葬儀は、宗教色の無い家族だけの非常に簡単なものにして欲しいと妻に頼んでいる。骨は墓には入れず、すべて散骨してもらいたいと...今、葬儀の事など考えるべきでないとは思うが、いずれは通らなければならない道なのだ。

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義母との生活 [家族]

義父の3回忌が終わり、去年もそうしたように、妻が義母を伴ってソウルに戻ってきた。気分転換を兼ねた短い同居生活?である。義母宅(アウェイ)にいるとき、私は何もさせてもらえない。もちろん、気を使ってもらってのことだが、私は自分のことは自分でしたい方なので、かえって疲れる。しかし、ソウル(ホ-ム)では逆になる。私は料理の下ごしらえに参加し、飲み物のサ-ビスをし、洗い物は一手に引き受ける。義母にすれば、婿(実際は婿ではない)にそんなことをさせるのは申し訳ないと思うようだが、私にとっては自然のことなので、気楽にそうさせてもらう。

うちの母もそうだが、義母も、「食が細くなった、あまり食べられない」と嘆く。しかし、実際、食卓につくと、私と同じ量を食べているし、外食をしても私と同じメニュ-を常に完食だ、どこをどう見たら、「食べられなくなった」などという言葉が出るのか、非常に不思議である。たぶん、義母の感覚の中には、「昔はもっと食べた」という思いがあるのだろう。しかし、その思いはどうやら、「自分が年を取って食べられなくなってきた」という観念的思い込みの裏返しであるようだ。一人で暮らしていると、食生活がおざなりになり、実際食べる量も少なくなるのかも知れない。ソウルにいる間、話し相手(妻)がいて、しっかり食べ、睡眠薬なしで眠り、長めの散歩をして、体重も少し減ったようだ。年をとってからの一人暮らしに、義母は自由さや幸福感を感じていない。誰かといるということが大切なように思う。義父が逝ってから2年、義母は慣れない一人暮らしを余儀なくされている。義姉やその子供たちがしょっちゅう顔を出しているようだが、基本的に一人なのだ。そう考えると、胸が締め付けられる。

義母が来て数日、私は仕事の山が来て毎晩遅く帰宅し、一日はとうとう朝帰りになった(残念ながら飲んでいたのではなく、久しぶりに徹夜仕事になった)。埋め合わせをするため、週末は、カジノを覘いたり、ショ-を見に行ったり、ホテルの食事に行ったりした。はたして、そういう所に不慣れな義母が、それらを心から楽しんでくれたのかどうか疑問ではある。家でゆっくり食事をした方がよかったのかも知れない(ま、それもしたが)。

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約2週間が経ち、義母が帰国する日、空港まで車で送っていくために、ナビをセットすべく、前もって駐車場の車を見に行った。リモコンキ-のスイッチを押す...私の「現代ソナタ」から「ピッ」といういつもの返事...がない。あれっ? どうしたの? もう一度スイッチを押すが、まったく返答なし。ひょっとしたらやばい状況? 手動でドアを開け、イグニッションを回そうとしたが、キ-を差し込むことすらできない。完全にバッテリ-・アウトの状態らしい。時間的にはまだ余裕があったので、申し訳なかったが空港バスで行ってもらった。妻が空港まで一緒に行った。手荷物検査、イミグレ-ションの手前で見送り、関空には義姉と姪が迎えにききてくれている。

こんなことがあと何回できるのだろう。義母は来年80になる。

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5月の帰国 義父の3回忌 [家族]

5月下旬の週末、義父の3回忌の法要があり、短い帰国をした。義父が他界したのは2年前だが、なぜか、3回忌である。このあたり、宗教的な説明があるのだろう。実際ネットで調べたがあまり興味はない。一方、命日あたりで、年に一度故人を偲ぶということには意味があるように思える。お寺に出かけて、坊さんの手を煩わせる(説明不可能な高い布施をする)ことには、私は肯定的ではないが、それは義母がそうしたいのだから、あえて異議は唱えない。今回は、M国に出発する息子とはしばらくの対面になるし、姪のMちゃんが婚約者を連れてくるとのことで、それも楽しみである。残念ながら娘は仕事で不参加だ。

朝8時半の飛行機に乗るために5時前に起きた。礼服は預かってもらっているので、シャツとネクタイだけ持参する。お寺に行く前に義母の家で義父の写真を拝む。相変わらず笑顔のすばらしい写真だ。前からずっとそう思っているのだが、義父はあの世とやらで自由に楽しくやっているに違いない。亡くなる前、身体が思うように動かず辛い時間を過ごしたのだから、あの世では、そのあたりきっちり埋め合わせをしてもらわないと、(私の感覚では)法外な「料金」をとるお経を唱える坊さんは詐欺師になってしまう。

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法要自体は何なのかよく理解できないので、おとなしく座っていたし焼香もした。ただ、法要が終わったあと、そこの坊さんがした話(法話?)にはほんとうにガッカリした。坊さんは何を思ったか、某東京都知事が撤回した言葉そのまま、「東北地方の震災は天罰である」とのたまわった。もちろん、それは、東北地方やそこに住む人たちに対する天罰ではなく、エネルギ-を必要以上に消費し、便利さと言う美名に「もったいない」という精神をないがしろにしていた日本人全体に対する警笛としての天罰だと言う説明だった。しかし、ここであえて「天罰」という言葉を使う必要があるとは思えない。それが適切でないと思ったから、あの強気の某東京都知事でさえ撤回したのだ。そして坊さんは「節約」の大切さを説く。しかし、その彼の寺の本堂は、無意味に金ぴか(少なくとも私にはそう見える)で、必要以上の装飾に金をかけている(ように思える)。「あんたが言っても、説得力も何もない」と思った。そして、さらに坊さんは、「吾唯足知(吾、ただ足るを知る)」という言葉を説明しようとしたが、残念ながら知識が不足しているのか舌足らずだった。こんなこと、京都の「竜安寺」に行った人ならたいてい知っている。残念ながら、私の「寺」という機能、組織、実力、社会的貢献に対する不信感は大きくなる一方である(あくまでも私が行った寺のことで、中にはちゃんとしたところもあると思う)。

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うちのバカ息子は、何を思ったかノ-タイで来た。「社内はノ-タイだから」というのが彼の言葉だったが、法要は社内の会議ではないのだ。クール法要などは(まだ)存在しない。このあたりきちんと教えてこなかった私が悪いのだが、彼の常識にはいささか不安を覚える。しかし、私自身、誤魔化せると思って黒のスニカ-で行ったので、人のことは言えない。まさに、この親にしてこの子ありである。姪のMちゃんの婚約者は180cm超のスマ-トでいわゆる甘いイケメン・タイプ。ただ、大変シャイであるらしく、ほとんど音を発しなかった。もっとも、まったく知らない初顔の親戚の中に連れてこられたのだから、それは当然と言える。

次の日、私の実家を訪ねた。悲しいことだが、実家の父母には、義父の法要に参加する気持ちはあっても物理的にそうする力がない。父母がだんだん弱っていくのを、私はただ悲しげに見ている。いや、心の中ではそれさえきちんと見ようとしていない。体力的に問題のある父を母が一生懸命支えているが、私はその母の話の腰を折ってしまう。取り留めのないグチだとわかっているのだから、ちゃんと聞いてあげればいいのに、私は悲しみで心がいっぱいになって、それを聞き続けることができない。読書家で寡黙で知的な父、優しく明るい母、そのイメ-ジをもう見ることができない辛い現実。その現実ははっきりしているのに、私にはそれがきちんと受け止められない。なんと情けないことだろう。「ご馳走を食べよう」、用意した「しゃぶしゃぶ」を囲むテーブルもあまり弾まなかった。

1日休みをもらって、買い物Dayにした。夏の旅行の準備である。山行きの服や靴、ザックを購入する。クレジットカ-ドの使用残高はうなぎ上りである。おまけに、M国へ行く息子が夏物ス-ツが欲しいと言い出し、なぜか支払いが私の方へ回ってきた。自分の収入を得るようになって3年以上経っているのだから、そんなものを回さないで欲しい。三宮近辺をうろうろして、かなり疲れた。関空発20:30の便だったが、電話会議にCall-Inするため、早め(午後4時過ぎ)に三宮を出た。日本では公共交通機関内での携帯通話は、頑ななほどご法度である(韓国では大っぴらに許容され、大声でしゃべっている人が少なくない...ほんとうに迷惑だ)。チェック・インを済ませ、空港ロビ-の端の方でこそこそ電話をする。

いつものように、大変あわただしい帰国だった。次の7回忌はいつあるのだろう。3回忌が2年目だから、その調子で行けば5年目くらいにあるのかもしれない(ネットで調べたところ6年目であることが判明した)。

私が韓国に戻った翌日、妻は義母と共に戻ってきて、10日あまりの同居生活?が始まった。

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