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息子の旅立ちとブランド時計 [家族]

私は娘のことをよく書いているような気がするが、息子のことはあまり出てこない。父親と息子はそんなにべったりしないものである。

この春、娘が就職し、我が家ではほとんど未知の東京へと旅立っていった。しかし、3年ちょっと前、休暇で帰国中、西明石駅の新幹線ホ-ムから、やはり就職する息子を東京に見送ったことがある。息子の場合、赴任先が未定で、東京は単に研修の場所だったので、「東京に見送った」という感慨はなかったのかも知れない。現在中部地方在住のその息子が、GWを利用して3泊でソウルにやってきた。息子は、年に1~2度、私たちを訪ねてくれるから、珍しいことではないが、今回は少し違った。彼もいよいよ旅立つとき?が来たようだ。約3年間、中部地方での勤務の後、この6月から東南アジアのM国に1年間海外研修に行くというのである。私が始めて国内線の飛行機に乗ったのは22歳の時で、国際線に乗ったのは29歳のときだった。その国際線には、当時3歳だった息子も同乗した(飛行機の中で熱を出した)。その彼が、26歳の今、自らの仕事で海外に出る。自営業の人が、「子供が跡を継ぐ」ということ言う。勤め人である私には継ぐべきものは何もないが、息子が同じような道を歩んでいるのを見ると、なんだかうれしくもある。少なくとも、息子が見てきた私の生き様は否定的なものではなかったようだ。

ソウルにいる間、息子はやけに食べ物にこだわった。「今日は、何食べる、夕食は何...」、そんなことばかり言っていた。家でロ-ル・キャベツ、ドライカレ-、焼肉、外でホテルのブランチ・ブッフェ、タッカンマリ(鶏鍋)、うなぎ、お粥、サムゲタン... いっしょに散歩したり、近くの山に行ったり、家でDVDを見たり、楽しい時間だった。私は仕事があるので(韓国にGWはない)、半分くらいしか付き合えなかったが、妻はずっと息子と行動を共にしたようだ。これも不思議なことだ。私には、丸3日ずっと母親と一緒にいるなんて想像も出来ない。息子は決していわゆる「マザコン」ではない。彼は、「自主・独立」の体現者なのだ。でも、母親とは友達のように仲良くできるのである。すごく不思議だ。高校を出てからずっと遠く離れて暮らしているから、たまに会うと仲良くできるのだろうか。

息子が日本へ帰る前の日の午後、私の携帯に電話があった。妻からである。ロッテの免税店にいるのだという。「免税店?」、いやな予感。息子には買いたい時計があるらしい。いろいろ調査した結果、彼の買いたいブランドの時計が、今ロッテの免税店で20%引きで売っているというのである。1年ほどかけて息子はある資格を取る勉強をしてきた。その最終の試験がソウルに来る前に終わり、息子の感触では高い確率でパスしているらしい。「がんばった自分への褒美」として、20%引きの機を逃さず、その時計を買いたい... 私にすれば、それは「合格が決まってから買う」のが筋のような気がする。でも息子が買いたいなら、彼の稼いだお金だ、自由にすればいい。しかし、妻が言うには、親としてお祝いの気持ちも込めて少しサポ-トしたい...「お祝いって、まだ合格したかどうかわからへんのに」と私は言ったが、そんな寝言は聞いてもらえない。「親として」いくらか出すことに同意させられた。が、しばらくして、また電話があった。息子のクレジット・カ-ドが免税店のシステムを通らないから、妻の自分のカ-ドで支払いたいと言う。こちらは仕事で忙しいのに、自分で判断して好きにして欲しい。「払ってもいいけど、お祝を引いた分、あとでちゃんと返してもらってよ。あいつには、親からの借金を踏み倒した前科があるから、そこはきちんと押さえてな」。その日、家に帰ると、結局、時計は買わなかった、いや買えなかったという。免税店での買い物は、買い主の名義のカ-ドでないと受け付けられないという説明だった。この場合、空港でブツを受け取る息子の名義のカ-ドでないとだめだということだ。結局、大騒ぎして、時計は手に入らず、これは、「今回は買うな」という天のからのメッセ-ジだということで、家族全員の意見の一致を見た。息子自身も、「実際、必要ではない高いブランドの時計を買っても仕方ない。その分、M国でいろんな経験をするのにお金を使った方がよっぽどいい」と納得していた。私も、「そうや、俺なんていまだに、バンコクのセントラルデパ-トで8,000バ-ツちょっとで買ったSEIKOの時計してるけど、それで十分や」と慰めた(慰めにも何もなっていない?)。そしてこの件は、終わった...と思っていたのに、さすがに、何かしてくれる男である。翌日電話があり、「帰りのインチョン空港で同じモデルを同じ割引で売っており、自分のクレジットカ-ドを出すとすんなり通ったので、その時計を買った、とても満足している」と自慢げに話す。前日の「天からのメッセ-ジ」はどこへ行ったのか?「いろんな経験に使うお金」はどこから出てくるのか...

さて、次に彼に会うのはソウルか、東京か、M国か...楽しみである。それまでに私も時計を変えようか。

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娘の旅立ち [家族]

娘の就職が決まり勤務先が発表になってから、我が家は一時パニックになった。勤務先が我が家にとってはほとんど未知の「東京」だったのだ。関西の人間は、口では東京と張り合いながら、心のどこかで東京を畏怖している(私だけか?)。日本人の10分の1が住む東京、当たり前のことだが日本語をしゃべる国内なのだから、そんなに大騒ぎすることはない。うどんの出汁が濃いからと言って恐がることはないのだ。ただ、「たぶん大阪になると思う」という後から聞けばまったく根拠のない娘の妄想を信じていたことと、東京は魑魅魍魎(ちみもうりょう、PCの漢字変換がなければこんなの絶対書けない)、百鬼夜行が闊歩する未知の土地(我が親族にとって)ということが、そのパニックの原因だった。実際、娘が家を探しに行ってからはすっかり落ち着き、物事は事務的に進んだ。ただ、1つ、大きな物理的イベント、「引越し」が問題だった。ほんとうは24にもなっているのだから、引越しくらい自分ひとりでして欲しいところだが、娘の辞書には「準備」という言葉がなく、引越しに関する「天賦」を持ち合わせてないらしく、「来たかったら、来てもええで」などと信じられないくらい横柄な態度で引越しの「SOS」サインを送ってきた。私は行けないので(タイミング的に行けても行かない)、予想通り、妻が手伝いに行くことになった。

娘の就職はとても大きな出来事である、3年前息子が就職し、そして今娘が職を得る。世間では就職が非常に厳しいこの時期、大変な幸運だと思う。ただ、娘を採用した法人に、人を見る目があるかどうかは若干疑問だ。ま、いずれにせよ、娘の就職で私の肩から大きな荷物が降りるのは間違いない。そうだ、来月から送金しなくていいのだ。思えば、娘が一人暮らしを始めてから6年、毎月の送金という重責と戦ってきた。そんな親の苦労も知らず、娘は(以前は息子も)、一般会計とは別に特別会計の送金も必要だなどと言い、通常の生活費とは別の支援も強いてきた。私たちは、韓国牛を食べたいのにオ-ストラリア牛で我慢し、ボルド-のワインを飲みたいところをチリ産で我慢し、日本製のキッコ-マン醤油を使いたいのに、東南アジア産(?)のキッコ-マン、時には韓国の現地醤油で我慢をしてきたのだ。そして、今、この耐久生活から解き放たれるときが来た。

~ この大空に翼を広げ 飛んで行きたいな ~
~ 送金のない自由な空を 飛んで行きたいな ~

などと歌いたくなってくる。これからは、10冊に1冊は単行本も買えるようになるのだ...(いや、これは主義の問題だから買わないが)。

ということで、私は一人の週末(週日も)を過ごすことになった。まずは、前夜祭、久しぶりにJさんと飲みに出かける。「雀翁さん、とてもいいワインバ-があるんですよ」、「何回か行ったところはつぶれたんですよね」、「今度の所はもっといいんです」、「Jさん、もうそこに行ったんですか」、「いえ、店の前から見ただけです」...とても頼りがいのあるJさんだ。そのワインバ-というか、ワインショップを併設したレストラン、どう見てもおっさん2人(Jさんは私より10歳ほど若いが、それでもや世間的には立派なおっさんなのだ)で行く店ではない。変な二人連れに見えないか、ちょっと心配だ。イベリコ豚やチ-ズのプレ-トと共に、Jさんお勧めのチリのワインを飲む(この次はボルド-...)、予想に反し、とてもおいしい。たちまち2人で2本開ける。Jさんがかなりハイ・ピッチだったので、私はちょっと自重する。2人とも酔っ払ってしまってはいけない。この日は私がしっかりする役目のようだ。「雀翁さん、Jazzは好きですか?」、「少女時代」を贔屓としているJさんから思いも寄らぬ言葉、「詳しくはないですが、聞くのは好きです」、「そうでしょう、韓国のJazzの登竜門のような店があるんです、行きましょう」。ワインバ-を出てタクシ-に乗り込む。運転手に行き先を告げたJさん、「雀翁さん、降りましょう」という。「運転手と喧嘩したんですか?」、「いや、あの運転手はとてもいい人です。そのJazzの店は30m歩いたところにあると教えてくれました」...Jさんといっしょにいることが少し不安になる。「Jさん、大丈夫ですか? そうとう酔ってません?」、「大丈夫、大丈夫、さ、行きましょう、30mです」。自分で大丈夫と言う酔っ払いほどあてにならないものはない。しかし、30mとは言わないまでも50mでその店はあった。「ほら、あったでしょう」、勝ち誇ったようにJさんが言う。店はいい店だった。小さなステ-ジがあり、それを囲むようにテ-ブルが配置されている。2週間前に来たというJさんのボトルがあった。18年もののスコッチだ。韓国ではスコッチが異様に高い、そしてとてもハイ・スペックなスコッチが一般的に出回っている。自分を大きく見せたい韓国人特有の「見栄」の為せる業だというのが私の観察だ。「韓国人は金持ちですね。日本なら12年物が主流ですよ(実際は知らない)。だいたい酔ってたら18年も12年も味がわからないでしょう」、「ごちゃごちゃ言ってないで、早く飲みましょう、乾杯!」、Jさんのテンションが異常に高い。ステ-ジではライブ演奏と古いビデオ上映が交互に繰り返される。とても気分のいい店だ。しかし、残念なことに、この店も、ワインバ-同様、おっさんの二人連れにはあまり似つかわしくない。周りは、95%以上カップルである。1時間半ほどいて、締めくくりに、Jさん行きつけの、私も何度か連れて行かれたバ-に行く。Jさんは、もうべろんべろんだし、私もとても眠かった。どれくらいその店にいたのか、家に帰り着くと1時半だった。

週末、一人の私は実に規則正しい生活をした。買い物に出かけ、料理を作り、洗濯をし、アイロンを当て、トマトジュ-スを飲んで、散歩に出る。古いDVDを見たり、本を読んだり...カレ-を作り、豚汁を作る。どちらも味はまことに美味だが大量にできてしまい、4日ほど同じメニュ-が続いた。引越しの前日の夜、京都の娘に電話をすると、「もうほとんど準備はできた」と言い、いっしょにいる妻は、「とても散らかっている」と言う。女同士の意見の相違にはかかわらない方が無難だ。「ま、どっちにしても明日は引越し屋さんが来るんやろ。がんばってな。おやすみ...」

春は旅立ちの季節である。 

そして、娘が東京に発った4日後、「3月11日」が来た。  


このような馬鹿げた話を掲載するのは気が引けましたが、被災者の方に迷惑がかからないことなら、できるだけ普通の生活をしようと思います。
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2010年から2011年へ (その2 望郷編) [家族]

27日、夜、N社日本法人の懐かしい人たちと会食する。この人たちといると、とてもリラックスできる。この宴会に先立ち、幹事のTさん(久保田の万寿と引き換えに娘を嫁に出す決心をした人)から、「雀翁さん、今回は絶対電車で帰りますからね。あんたはいいでしょうが、僕たちは次の日は仕事ですから」といい含めらていた。考えれば、いつも同じようなことを言っているのに、電車で帰った試しは1度としてない。しかし、今回はTさんからのメ-ルに冗談文がなかったので、Tさんもようやく真人間になる決心をしたのだと思い、こちらもその気でいた。宴会場所へ行く前に、本屋、中古CDショップ、そごう、ドト-ルコ-ヒ-、三宮センタ-街、元町、中華街などをぶらぶらする。集合時間に3分ほど遅れて宴会場所に到着。すでに、Tさん、Sさん、Eさんが来ていた。ビールを頼んで突き出しで飲み始めると、Iさん、Fさん、Fさんその2が来て、本格的に食べ始めると、Yさん、そしてKさんがやって来た。お土産で渡したコチュジャンをあけて、Eさんが刺身を食べている。みんな昔からの知り合いで、当然若い人はいない。とても素直で笑顔の素晴らしい20代だったFさんも、もう不惑クラブの仲間入りだ。どうでもいいことをごちゃごちゃしゃべっていると、15年ほどタイムスリップした気になる。2次会でカラオケに行く。みんな、昨日も会ったかのように接してくれるのがうれしい。私が、Sさんに「前、歌ってた中島みゆきの帰省を歌ってぇな。あれ、ほんまにええ歌やなぁ」と頼むと、なんと、Sさんは「そんな歌、知りません」という。「何で、何で? 前、歌ったやん」、「歌ってませんよ。どんな歌ですか?」...実際、「帰省」を入れて前奏が流れてもSさんは首を振るばかりである。仕方がないので自分で歌った。では、私は誰が「帰省」を歌ってるのを聴いたんだろう? とても不安になる。その後の調査で、Sさんが歌ったのは「ホ-ムにて」という曲、それを私が勝手に脳内変換をして「帰省」だと思い込んでいたということで落ち着いた(なんとなく納得はいかないが)。「電車で帰る」というTさんの言葉が、呪文のように私を縛っていたので、酒量は自分でも信じられないほど控えめにした(少なくとも自分の意識の中では)。「さあ、帰ろう」、駅に向かって歩き始めると、あろうことか、そのTさんが、「もう一軒だけ行きましょう」と私の袖を引っ張る。みんな先を歩いて行ってしまうのに...「あのねえ、Tさん。行ってもええけど、あんたが電車で帰るって言うてたんやで。いつもは僕が悪いんやけど、今回はあんたの責任やからな。それだけは、しっかり覚えといてよ」と酔っ払いに言っても仕方がないことTさんに言い聞かせる...行った、飲んだ、タクシ-で帰った。翌朝、「鞄持って帰ってきた?(前に酔っ払ってなくしたことがある)」と妻に聞かれ、あわてて確認する自分が情けない。

28日から30日の昼まで、私の実家に行く。いろいろあった。

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30日夕方、高校の同級生のOとその奥さんSに会う。Oが予約をしたという串カツの店に着くまで30分ほど歩く(道に迷ったのだ)。「Oと行くと、いっつもこうやっていっぱい歩かされんねん、ハハハ」とSが笑う。OとSの夫婦とはもう25年以上の付き合いだ(Oとは35年以上)。この夫婦、いつも9割がたSがしゃべっている。大輔・花子のようである。Oが好きなので年末はたいていスキ-に行っている。「今年はスキ-に行かへんのか?」。OとSがアイ・コンタクトで何かを確認している。聞くと、Oが何をしたのか、はっきり言わなかったが、巨額の損失を出したのだという。その穴埋めが終わるまでスキ-はお預けだと。去年も行ってないが、来年は行けそうだと、Oが悲しそうな目をして語る。「私がどれだけ泣かされたと思ってるん? そやのに、私が泣いてるのにOが、『S、パン焼いて~』って言うんやで。雀翁さん、聞いてぇ、『パン、焼いて~』やでぇ。信じられへんわ、なあ、雀翁さん」...巨額の借金と「パン焼いて」がどのようのに繋がるのか今一わからなかったが、Oの同級生として何やら精神的連帯的責任感に駆られた私は、「ごめんな、S。堪忍してな。こら、O、ごめんなさい、もうしませんて言え」...他にもOが空手の練習で喉の骨を折った話しなど、串カツ屋はSの独壇場となった。でも、私は知っている、SはOが大好きなのだ。2軒目でスコッチを飲んだ後、「またな~」、三宮の駅の上りと下りのホ-ムに別れて立つ。見ていると、SがOのマフラ-の撒き方を甲斐甲斐しく直してやっていた。「もう、あの二人...」、私は微笑むのを止めることができなかった。

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31日、私の実家へ行ってまた両親の世話を焼く。この日まで借りていたレンタカ-を返す。明石の魚の棚に行く。とんでもない人出だ。最近たくさんできた玉子焼き(俗称、明石焼き)の店はどこもいっぱいだった。行列ができている店も多い。私たちは昔からある駅前の「松竹」で食べた。魚の棚の名物だった「明石鯛の姿焼き」の店が減ったように思う。これも時代の流れだろう。縁起は良いのだろうが、前の日以前に焼かれた鯛を元旦に焼きなおして食べたいとは思えない。すでに飲んでしまった分を穴埋めすべく、いつもの店で久保田の千寿を買った。妻の実家で夕食。約半年後に結婚するという姪のMちゃんもいっしょだった。それまで、Mちゃんとはたいした話をしたことがなかったが、結婚と言う話題があったせいか、私の口は軽くなった。Mちゃんの結婚は私たちの次世代の最初となる。Mちゃんの弟のR君にも結婚話があるという。うちの息子と娘からは、そんな話が聞こえてこない。ま、それは本人の決めることで親がどうこう言う筋合いはない。


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元旦、私の実家へ新年の祝いに行く。娘も京都からやって来た。息子からは前日、不参加との連絡があった。今では、文化的な意味はともかくとして、実質的必要性はほとんどなくした御節料理。ごまめや黒豆、数の子、昆布巻き...どうしても食べたいと言うものではない、両親は自分たちの御節を注文していたし、私たちも自分たちの分はネットで注文していた。それらを取り混ぜてみんなで食べる。めずらしいという意味で、お餅はおいしい、雑煮で1つ、焼いて醤油をつけ海苔に巻いて2つ...近くの神社に詣でる。ここも、えらい人だった。神様も一々聞いていられないだろうし、年に1度しか来ない不信心者の願いをきくほど暇でもないだろうが、とりあえず、いつものお願いをした。そして、今回は両親の健康のお願いを付け加えた。

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午後は移動して妻の実家へ行く。一人、明石駅からO蔵海岸を通って、A霧駅で折り返し歩いて行く。雨が降り出すほど雲っていたが、O蔵海岸からの明石海峡、明石大橋の眺めはすばらしい。正月だからだろうか、船の数がとても少ないように思えた。雨が降り出したので、足を速める。妻の実家ではお祝いの食卓の準備が佳境を迎えていた。「お待ちかねやで」、娘が言う。何がお待ちかねかと聞くと、「伊勢海老の殻を外す仕事」が残っていると言う。「伊勢海老の殻を外す」スペシャリストでもない私をなぜ待っていたのか?「危ない(殻で手を切る)から、みんな嫌やって」... どういうこと? まあ、よろしい、見事殻を外しましょう。
義兄は今年、定年退職を迎えると言う。この義兄、まじめでいい人なのだが、残念なことに酒癖があまりよろしくない。最後には、決まって、小学校から大学までの校歌を歌いだす。私も慣れない頃は付き合わされたが、今ではうまくかわしている。「これが出たら安心や」、義母が何故か安心している(もうすぐ酔いつぶれるからだろうか)。私も酒癖がいいかどうか自信はないが、この義兄を見る度に、酒はきれいに飲みたいと思う。

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2日、韓国の休みは基本的に元旦だけだ。今年は2日が日曜なので少し得をした。夕方発の便で一人ソウルに戻る。関空のイミグレ-ションを出て歩いていると、あるものが目に入った。炊飯器である。今でも、日本や韓国に来る中国人がお土産に炊飯器を買って帰る姿は珍しくない(昔は日本に来る韓国人が買っていた)。昨秋、タイで買って10年ほど使っていた炊飯器(日本製)が壊れた。今回は、同じようなお米を食べる国、韓国製のものを買おうということになり、近くのス-パ-で買った。しかし、どのように工夫しても美味しく炊けず、ここ2~3ヶ月、新しい炊飯器は我が家の悩みの種だった。ちょっともったいない気もするが、食は生活の根本だ。幸い、この関空免税店には、Made in Japanと称した象や虎の会社の製品があった。インチョン空港からの帰り、荷物が持ちにくくなるが思い切って買った。そして、我が家の炊飯器問題は無事解決した(3日に実証済み)。

家について荷物を片付ける。そして、この秋の高校の学年同窓会を記念して、幹事会が作って配送してくれたDVDを、ひとり、シ-バスのロックを片手に見る。8mmの焼き直しだから画質はよくないが、30数年前の、懐かしくそして若さに満ちた友人たちが画面で飛び回っている。そして私の休みは終わった。

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2010年から2011年へ (その1 京都編) [家族]

12月24日、朝、7時前にソウルのアパ-トを出ると、そこはマイナス14度の世界だった。寒いというより痛い。空港バスに乗り込み、ほっと息をつく。これから、「南国」、日本へ行くのだ(沖縄へ行くわけではなく、関西へ帰省)。

関空に着きイミグレ-ションなどを終えると12時過ぎ。初めての試みとして、関空で到着後のお昼を食べることにした。行きなれた空港内の「KYK」の暖簾をくぐり、とんかつと牡蠣フライの定食を摂る。日本での1食目、悪くない。店内は混んでいて、後で何やらモデル風の中国人の5~6人のお姉さんたちが、二人の日本人らしきおっさんに連れられて入ってきた。印象に残ったのは、そのお姉さんたちが代金をそのおっさんたちに払っていたことだ。どういうことだろう? まあ、いい。

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「特急はるか」に乗り京都へ、そしてタクシ-で北野天満宮近くの娘のアパ-トに向かう。2年
前、平均的な学生が住むには少し広くて高いこのアパ-トに娘が移りたいと言ったとき、「いつでも宿泊可」という条件を付けた(2回しか行使していないけど)。クリスマス・イブだというのに時間があるという娘(ちょっと心配)と、丸田町あたりへクリスマス・ディナ-に出る(その前にいろいろ買わされる)。一人8,000円だというクリスマス・ディナ-は、まあ、可もなし不可もなし。ワインはおいしかった。別のテ-ブルでは推定80過ぎのおばあさんが、息子と思われる男性とステ-キを食べていた。健康であることは、それだけで宝物である。

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25日、まだ寝ている妻と娘を残して、京都の町散策に出る。京都の町は、歩いているだけでたくさんの発見があり、とても楽しい。自由散策に行く条件として、朝の「クロアッサン」を娘指定のベ-カリ-で買う(憲法により自由や基本的人権を保障されているのに何故か条件をつけられる)。だが、問題発生。店に入ろうとしたが入れない。入店を拒否されたわけではない。物理的に入り口の戸が開かないのだ。しばらくその戸と戦ったが...負けた。中に人がいるのに、まだ準備中なのだろうか。戸から3歩ほど下がって、首をかしげていると、中から笑顔のお姉さんが戸を開けてくれた。別に鍵を開けたわけではなく、戸を外側に押しただけだ。どういうわけか、その時私は、戸は内側に開くものと思い込んでしまっていた。押しても開かないので、ひょっとしたら、引き戸かもしれないと横に引いても見たのだが、何故か素直に手前に引くということを思いつかなかった。「このおっさん、こんな戸を開けることも出来へんのか?」とお姉さんは思ったことだろう。買ったパンを持って、西陣の路地を歩いた。お寺があり、何やら由緒ありげな店があり...1時間半ほど、うろついてしまった。怪しい人である。

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「娘の友人がバイトをしている店が近い」という理由で、三十三間堂へ出向いた。冬の京都のお寺巡りは、ちょっと厳しい。靴を脱いで、冷たい板敷きを歩かなければならない。圧倒的な数の千手観音たちで混み合った?三十三間堂は圧巻である。その千手観音の前に、雷神・風神など数々の国宝の像がにらみをきかせている。だが、如何せん、寒い、冷たい。本来なら国宝たちとゆっくり語らいをするところだが、すごすごと立ち去る。何故かみやげ物売り場にだけはスト-ブがあり、暖かくて居心地がいい。娘が不要な買い物をしていても許せてしまう。(実際あまり近くなかったが)、娘の友人がバイトをしている茶店で、懐かしい味の小倉ホットケ-キを食べる。他に、ぜんざいを食べ、コ-ヒ-も飲んだのに、「1,000円」だと言う。バイトの娘の友達と言うことで、オ-ナ-のおばあちゃんがサ-ビスしてくれたのだ。
四条あたりで、またいろいろ買わされ、夕食はそれまでに何回か行った五条の蕎麦屋、「よしむら」へ。3人で、ごちゃごちゃ食べて飲んで、10,000円ちょっと、素晴らしい価格設定である。蕎麦もおいしかたし、ごちゃごちゃもおいしかった。帰りに、1日遅れのケーキを買って帰る。

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26日の朝の散歩には妻が着いてくる。北野天満宮に行くと、初詣受け入れのの準備をしていた。12月26日に「迎春」はちょっとい興ざめだが、仕方ない。

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昼ごはんは、アパ-トの近くの鶏鍋屋さんへ。娘がネットで探したのだという。昼は、「親子どんぶり専門」だ。ネットの口コミによると、「店の人は愛想はいいが接客に問題がある」のだという。よくわからない。「接客が悪い」という心積もりで暖簾をくぐる。町屋風の玄関を入ると...誰もいない。取っ掛かりがなく、どうしていいかわからない。なるほど、接客の問題点はこれなのか。声をかけてしばらくすると、忙しそうなおばあさんが通り過ぎて行こうとした。「あの、どこへ行けば...?」、「あ、突き当りの階段を左に上がってください」、愛想の良い笑顔で答えてくれる。靴を脱いで、玄関からせまい民家のような廊下を行くと、なるほど、これまたせまい民家のような階段がある。階段を登ると、これまた民家のような、3つの和室のふすまが取り払われたような所に出た。ここは立派な民家であるらしい。小さな机(お膳?)が適当に配され、座布団が「使いたかったら使ってもいいよ」と言うふうに、ばらけて置いてある。私は気づかなかったが、娘が、「もう注文通ってるで」という。廊下ですれ違ったおばあさんが、「親子3つ」と注文を奥に通したと言うのだ。なるほど、昼のメニュ-は「親子丼」のみ。100均のような会計的効率の良さである。少しすると、おばあさんが、お茶を持ってきてくれた。「さあ、どうぞ」、何だか親戚の家に来たようだ。待つことさらに5分。黄色の濃い親子丼が運ばれてきた。卵がふわふわしている。なるほど、これが京都老舗の親子丼か...と思わないでもなかったが、私には、少し味が濃かった。


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アパ-トへの帰り道、不思議な和菓子店に入る。中が見えないので、若干の躊躇があったが、娘が前から気になっていると言うので戸をあけてみた。店の中には、予想したようなショ-ケ-スはなく、民家の玄関先のようなところに、どこで作ったか定かでないような和菓子が6~7種類、何の主張もなく並べてあった。先客があり、店のおばあさんは、この先客に10分ほど掛かりきりになっていた。とても効率的である。私たちは、饅頭や最中を3つだけ買う。店のおばあさんはとても愛想がよかった。「愛想はいいが、接客に問題がある」、ひょっとしてこれはこのあたりの店に共通の嗜好なのだろうか。とにかく、京都は奥の深い処である。

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夜は明石の妻の実家におじゃまする。基本的にここが帰国時の活動拠点になる。お正月用だというお酒を、半分ほど飲んでしまった。とんだ義理の息子である。

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義母との生活 [家族]

義父の一周忌の法要の終わりを待って、義母をソウルに招いた。積み重なったいろんな疲れや、義父を失った気落ちなどを少しでも癒してもらおうという魂胆である。一周忌から3日後、家内とともに義母がソウルのアパ-トにやって来た。足が弱ってあまり歩けないということで心配だったが、長い距離を歩かないまでも、地下鉄に乗ったり、景福宮を歩いたり、思ったよりも行動範囲が広かったし、食欲がないということだったが、私たちとほとんど同じ量を食べることができた。そして驚いたことに、一応礼儀として、「お義母さんも一杯どうですか」とお酒を勧めると、「そう? ちょっといただきましょか」とお酒を飲んだことだ。義母を知ってからもう30年ほどになるが、義母がお酒を飲むところを見たことがなかったし、だいたい飲めないと思い込んでいた。この件に関しては、私より、家内が驚いたようだった。ホテルのブランチへ行くと、シャンパンがグラス一杯サービスされた。その後、ウェイタ-のおじさんが、「特別です」と、もう一杯づつグラスを満たしてくれた(その間すでに私は白ワインを2杯飲んでいたが)。義母は当然のようにそれを飲み干した。「お母さん、お酒飲めたん?」、家内の目が点になっていた。

義母は昔気質の人だから、常に義父を立て、義父を自分の生活の中心としていた。たぶん、自分のしたいこと、好きなことを、意識的にまた無意識に我慢してきたのかも知れない。その義父が逝ってしまい、世話をする対象をなくし、ある意味、生き甲斐を見失っているようにも見える。口から出ることは、ほとんどが過去の義父や孫たちのことで、自分のことや将来のことは出ない。そして、過去のシ-ンの断片が繰り返し出てくることもある。基本的に現在と未来にしか興味のない私には、ちょっと辛いことではあるが、「そうですか」と聞いてあげる以外、私には何も出来ない。

> 母は今年九月で六十四 子供だけのために年取った
> 母の細い手漬物石を 持ち上げている
> そんな母を見てると人生が 誰のためにあるのかわからない
> 子供を育て家族のために 年老いた母
> 人生が2度あれば この人生が2度あれば
(井上陽水)

義母は真剣にTVと話をすることができる(サムソンが双方向の新技術TVを発明したわけではない)。「へ~え」、「ああ、そう」、「そんなことしてええの?」、「いやあ、ほんま?」。私もたまに「ええ加減なこと言うな!」とTVの政治家たち(与党の元2TOPとか、野党第一党の党首とか)に突っ込むことはあるが、さすがに会話はできない。そばで見ていて吹き出しそうになったが、これが義母の生活なのかもしれない。家を守り、一人で家にいる時間が、私には想像できないほど長かったのだ。

いっしょに生活すると、義母の好ましくない面も見ざるを得ない。たぶんそれは義母に限ったことではなく、一般的に年を重ねるとそうなることが多いのだろうと思う。融通がきかないというか、人の話を聞かないのだ。「これは、こういうもの」という思い込みが強く、それ以外のことを受け付けようとしない。いっしょに「ためしてガッテン」というNHKの番組を見ることがあった。そのときは、「アサリをおいしく食べる」ということがテ-マで、「茹でて口を開かないからと言って死んでいるのではなく、また口を開くからといって生きがいいわけでもない」ということを、私が贔屓にしている小野文恵アナウンサ-が、わかりやすく説明していた。それをTVと会話しながら、「なるほど」と見ていたのに、最後に、「口開かへんのは死んでるから食べたくないやんなあ」と言うのである。もし家内がそう言ったら、「何聞いとったんや?」という所だが、義母なので、「そうですね、食べたくないですねぇ」と合わせざるを得ない。お土産用のBBクリ-ムを買いに行ったとき、どんな成分がいいかという長い話の果て、突然それまでまったく話になかった、「やっぱりアロエやな」で話しが終わってしまった。義母の頭に「アロエは肌に良い」という思いが強くあるようだった。

わずか19日の滞在だったが、少しはゆっくりできて、普段しないような経験もしてもらえたように思う。義母の小さなキャリング・バッグは親戚や近所の人たちへのお土産でパンパンに膨れた。自分のためのものは何もない。帰国の前の晩、家内が用意したお土産は、19日間にしたこと、行った所、食べた物の事細かな一覧表。そして数百枚の写真の入ったメモリ-・スティック。義母の「自分自身のよい思い出」となってくれればと思う。

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