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2月の読書、「くらやみの速さはどれくらい」など [本]

2月は、2つの旅行/出張があった。空港のラウンジで、飛行機の中で、そしてホテルの部屋で、本に向かっている時間は、どこにいても本の中の世界に身を移せる。本を開くと、そこは「どこでもドア」の入り口なのだ。

「十二人の手紙」、井上ひさし
「想い雲―みをつくし料理帖」、高田郁
「哀愁の町に霧が降るのだ(上下)」、椎名誠
「人情裏長屋」、山本周五郎
「くらやみの速さはどれくらい」、 エリザベス・ムーン

「十二人の手紙」、井上ひさし
メ-ルが普及し、「手紙」を書くことがほとんどなくなった。そもそも字を「書く」ことがほとんどなくなった。たまに、自分が書いた字を見ると、生きていく自信がなくなるほどである。この本が発売された1980年当時は、まだメール前の時代なので、「手紙」は気持ちや用件の重要な伝達手段だった。収めらている、12編は「手紙/記録」に書かれたいろんな人生を「手紙」と言う表現方法で巧みに描いている。私は井上ひさしの作品にほとんど無知だが、この1篇を読むだけで、彼のすごさがわかるような気がした。メ-ルやツイッタ-で、「東京ナウ(なう?)」などと書くと身も蓋もないが、手紙になると、そこにいたるまでの心の風景が浮かび上がってくる。また、手紙の中の言葉には「力」があるように感じる。遠く離れていて通信に最低往復一週間以上かかるような手紙の通信では、どんなに困っていても、「幸せにしています」と書けば、そして、それを何通もに渡って書けば、受け手は素直に信じるだろう。嘘を書くのは、しかも直筆で書くのは、エネルギ-が要る。
中学生のころ、クラスの友人に紹介され、佐賀県のNさんと文通していたことがある。まったく知らない人との文通では手紙に書かれた言葉がすべてである。行間を読むことはあっても、中学生の洞察力など知れている。高校に入って、いつの間にか手紙を出さなくなったが、ふとNさんのことを思い出すことがある。思い出すといっても、Nさんが陸上部にいたことと、一葉のスナップ写真の姿だけだが...

「想い雲―みをつくし料理帖」、高田郁
シリ-ズ第3弾、今回もすっと読めてしまった。物語の展開や、料理のアイデアは相変わらず楽しい。行きつけの店(飲み屋ではなく料理屋)があるって素敵だなと思う。このお話の中で、主人公「澪」の働く「つるや」に、脚本家?と出版屋のコンビが毎日のようにやって来る。基本的に料理に満足しているのに憎まれ口しかきかない脚本家、ただただ賞賛し、たまにきつい真実を指摘する出版屋。彼らが、このような行きつけの店を持っていることの幸福感というか優越感がひたひたと伝わってくる。マーケティングの基本中の基本、お客さんが何を望んでいるか、何をうれしく思うかという視点に立って考えられた料理がまずいわけがない。

「哀愁の町に霧が降るのだ」、椎名誠
何度この本を読んだことだろう。私の数少ないリピ-ト本だ。今回はDubaiの往復で読んだ。行きに上巻、帰りに下巻。家に帰ってくると、文庫本のカバ-が破れてしまっていた。仕方が無いので、セロテ-プでしっかり補強した。今さらこの本に関し何も言うことはないが、読むたびに、何やら「やらねば」と思わせてくれる本である。これからまた、何度も読むだろう。

「人情裏長屋」、山本周五郎
なんだか、ちょっと野暮ったいコテコテのタイトルで、もちろん内容も、長屋に起こる悲喜こもごものお話しである。でも、その一編一編のお話しは、いかにも山本周五郎らしい、てても素敵な話である。とてつもなく剣術ができる、ありえないスーパ-
マンも出てくるが、それも著者の手によって、無理なく話の中に織り込まれている。「困ったときの山本周五郎」、現実の本屋さんではなく、Amazonなどで本を探すとき、「山本周五郎賞」の受賞作品を選んだり、受賞作家の本を選んだりする。とてもはずれの少ない選択方法だと思う。

「くらやみの速さはどれくらい」、 エリザベス・ムーン
「アルジャーノンに花束を」を想わせる主題だが、私には「くらやみの...」の方が、しっくりきた。人は光の速さについて語るが、暗闇の早さについては語らない。なぜなら、暗闇は始めからそこにある存在・状態であって、光のように動くものではないから...主人公のルウは、光が行き着く前にすでに暗闇が行っているから、暗闇の方が光より早いのではないかと考える。この暗闇は、おそらくルウが「自閉症」であることに関連している。「ノーマル」と「自閉症者」の違い、ほんとうに「ノーマル」であることがいいことなのか、自分は「ノ-マル」になりたいのか、「ノーマル」な人が変なことをするのは何故か...ルウは問い続ける。ルウをよく知る周りの人間は、「自閉症であるルウ」を愛し理解する。自分が「ノ-マル」であると思って読んでいる私たちも、「ノーマル」であることにやがて疑問を持ち始める。お話しを読み進めるにつれ、たいていの読者は「自閉症のルウ」が好きになっていくと思う。「心」がこわいくらいに美しい。正直、私は「自閉症」というものをほとんど理解していなかった。この本に出てくる自閉症の人たちは、私がその語感から勝手に想像していた人たちとはかなり違っていた。私は簡単なネットの検索で「自閉症」を調べ、少しだがそれを理解した。もちろん、まったく十分ではない知識だ。後半、主人公のルウは、大きな決断を迫られ...結末は少し飛びすぎているように思えた。

巻末の解説を読んで、この本がSFに分類されていることを知って、少なからず驚いた。私はSFをほとんど読まない。嫌いなのではなく、どうもなじめないのだ。でも、もしこの本がSFだと言うのなら、私は自分の読書範囲を広げるべきかもしれない。

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1月の読書、「物乞う仏陀」、「阪急電車」など [本]

1月は、寒くて外に出たくなかったり、実際、風邪を引いて家にこもったりする週末が続いた。本と居心地のよいソファ-とコ-ヒ-、そして静かな音楽があれば、そんな週末も楽しく過ごせる。

「喜びは悲しみのあとに」、上原隆
「シェエラザード」、浅田次郎
「ユージニア」、恩田陸
「阪急電車」、有川浩
「絵の教室」、安野光雄
「私の男」、桜庭一樹
「家日和」、奥田英郎
「ぼくの出会ったアラスカ」、 星野 道夫
「物乞う仏陀」、石井光太


「喜びは悲しみのあとに」、上原隆
コラム・ノンフィクション。短いお話の中に、人生の機微が凝縮されている。苦しい人生を生きる人がたくさんいる。その中に射す、一片の光り。悲しみのあとに射す光は、この上もなく明るく暖かい。辛いいじめを受けた少女が、9年後、明るい表情で言う、「ああ、タイムマシンに乗って、あのころの自分に教えに行きたい。大丈夫だよって」。アンジェラ・アキが歌った15の時の自分にメッセージを送るがごとく、「泣かないで、負けないで、消えそうな時には自分の言葉を信じ歩けばいい」。

一方、高校の同級生が、最近私に言った。「この年になると、死んじゃだめだ、絶対に生きていたらいいことがある」って、言えないようになったと...

「シェエラザード」、浅田次郎
帰国時、妻の実家にある、息子の本棚から拝借した。息子から本を借りるようになるとは思ってもみなかった。
大戦が終わりに近づいた1945年4月、2000人以上の人を乗せた非戦闘艦、「阿波丸」が沈められた。それを下敷きにした浅田次郎のフィクション。「弥勒丸」という名でこの」お話に登場する。戦争も終わり間近などと、今だから簡単に言えるが、当時を生きていた人、国民的詐欺のような大本営発表を信じさせられていた人たちにとって、毎日を生きることが必死だった時代。悲劇の「弥勒丸」が、「予定どおり」撃沈される。その悲劇へ向かう姿を私たちは読まされる。怒りと途方もない悲しみが襲う。船乗りとしての誇りを持ち続けた人たちの美しさと、それを無視して虚構で固められた意味のない作戦を遂行しようと銃を向ける高級参謀と呼ばれる人々...アラビアン・ナイトをモチ-フにしてロシアの作曲家が作ったという、「シェエラザ-ド」を古い蓄音機で聞いてみたいと思ったのは私だけではないはずだ。

「ユージニア」、恩田陸
日本推理作家協会賞受賞作という帯の文句につられて買った本だと思う。茫洋とした記憶の世界、犯人が告げられず、動機がはっきりせず、謎解き自体がほとんど触れられていない。心の葛藤が主題となっている本だと思う...が、本格推理小説を期待して読んだ私には、まったく消化不良となった。「夜のピクニック」で、私はこの著者の本を読むようになったが、そろそろ潮時かもしれない。

「阪急電車」、有川浩
神戸から大阪へ行くとき、3本の電車が並行して走っている。山側から、「阪急」、「JR」、「阪神」だ。この阪急は「神戸線」だが、この本で取り上げられているのは「今津線」、阪急電車の特急停車駅、「西宮北口」から宝塚へ伸びる支線というのが、私の認識だった。でも、この本を読んで少し違うことに気がついた。しかもこのお話は、「北口」からでは なく、「宝塚」を出発点としている。さらに、「北口」のことを「西北(にしきた)」と呼んでいる。これだけでも、私にとっては興味深いが、描かれているお話がとても楽しかった。若いころに戻って、恋愛をしたいなと思わせるような話である。

私は個人的に、阪急今津線とはほとんど関わり合いがない。KKDRと言われた関西の私大の1つを受験した時に行ったのと、宝塚ファミリーランドに行った時くらいしか乗っていないと思う。入学金だけ払って結局行かなかったあの大学へもし行っていたら、今は違う人生を歩んでいたかもしれない。この本を読むと、降りたことのない 「小林」という駅の近くに住んでみたくなる。実際、この本の影響で、「小林」近辺の賃貸価格市場に変化があったかもしれない...あとでこの本を読んだ妻(大学は「門戸厄神」下車)によると「小林」は「おばやし」と読むらしい...知らなかった。

「絵の教室」、安野光雄
人は誰にでもコンプレックスがある。私の数多いコンプレックスの中で、「絵」を描くこと、いやもっと広げて「美術」の作成がそれだ。私には図画工作の才能がはっきり欠如している。もうすっかりあきらめている。だから、この本を読んで今更なんとかしようと思ったわけではない。いろんな作品が例として収められているのが楽しく、絵を描くということがいったいどういう ことなのか、少し知りたかったのだ。絵を描いている人が、漫然と描いているのではないということはよくわかる。「ゴッホ」の人生や彼の絵の変遷などは読んでいて楽しい。絵は描けなくても、見るのはいやではない。ずいぶん昔、たぶんうちの子供たちが小さい頃買った、「旅の絵本」の作者が、「絵」についてどんな話をするのか興味深かった。遠近法に対する批判的立場もおもしろい。私からすれば、そんなにうまく描けるなら、何法でもいいような気がするが...

「私の男」、桜庭一樹
直木賞受賞作。読んでいて、背筋が寒くなってきた。賞の選考者たちには絶賛されているようだが、読んでいて楽しい本ではない。今の日本の閉塞感、しかも経済的なそれではなく、精神的な閉塞感。それを薄気味歩く描いている...と私には思えた。もう読みたくないし、この作家の本は手に取らないと思う。それは、単に、社会的タブーを 扱っているということだけではなく、その後ろにある薄気味悪さを肯定しているように感じてしまうからだ。この作家が好きだという方がいらしたら、大変申し訳ない。

「家日和」、奥田英郎
楽しい本だった。「私の男」を読んだすぐ後、気持ち直しに読んだので特にそう感じたのかもしれない。妻が出て行った部屋を自分がしたかったように作り変えていく話に、大いに共感できた。本棚を置き、古いレ-コ-ドを並べ、レコ-ド・プレ-ヤ-を買い、本格的なオーディオ・スピ-カ-・システムを設置する。若い頃あこがれたが、経済的理由で実現できなかった部屋。年を重ねて、経済的にそれが実現可能になっても、今度は別の理由でそれができない(家族の同意が得られないなど)...たくさんの中年・熟年男性が感じていることだろう。実際は、哀しい中年・熟年男たちは、始めからあきらめていて、家族の同意を得るための提案さえしないことがほとんどなのだろうが。別の短編では、ネットオ-クションにはまった妻が、長年使っていない夫のギタ-やレコ-ド・プレ-ヤ-を売り飛ばすという話しがある(売ってみて、それらに着く値段の高さに驚く)。うまく対を成した話しだ。女性の平均余命の方が、男性よりよっぽど長いことがよく理解できる。

「ぼくの出会ったアラスカ」、 星野 道夫
またしても星野道夫の本。この本は写真が3分の1くらいで、読むと言うより眺める本だ。アラスカの四季を2時間で見ることができる。それにしても、自然の美しさ、たくましさ、強さはどうだ。写真の一つ一つに目が洗われていく。そして、彼の視点は、そのあたりの森の木の幹にあるように自然なのに、その瞬間をきっちり捉えている。今回初めて、彼が写っている写真も見た。私が想い描いていたイメ-ジとはちがって、がっちりした体格、人懐っこい丸い顔...どうして私はもっと繊細な感じの人をイメ-ジしていたんだろう? 考えればアラスカの山の中で一人数週間をすごすガッツと体力の持ち主なのだ... アラスカに行ったからと言って、彼が出会ったアラスカに会えるわけではない。彼の写真を通じては、彼の見たアラスカの断片に触れることが出来る。

「物乞う仏陀」、石井光太
1995年ベトナムに赴任した私を一番悩ませたのは、激務や単身赴任の寂しさ、定期的に起こる食あたりなどではなく、通りを歩くとたちまち私を囲む「物(お金)を乞う子供たち」だった。今ではたぶん、すっかり垢抜けた通りになっているであろうドンコイ通りには、当時たくさんの物を乞う子供たちがいた。気の小さな私は、これらの子供たちに平静が保てず、徒歩で外出することを避け、どうしても必要なときは、知った道を飛ぶように歩いたものである。子供たちが貧しいのは、私の責任ではない(少なくとも直接の責任はないはずだ)。しかし、実際、生活に困ってると思しき子供たちに、服の裾を掴れ、空の手を差し出されるととても辛い。一人に何かを与えると、空の手がどんと増え、身動きが取れなくなる。そんな状態から逃れるため、私は小さな子供のための基金を見つけ、寄付を始めた。寄付をすることにより、通りの子供たちを無視するという免罪符を買いたかったのだ。要は、私は目をつぶったのだ。いったん始めた寄付は、やめるタイミングを失って、今も細々と続いている。でも、もともとの動機に思いが至ると、私は自分が嫌になる。「偽善者」、という単語が私の脳裏に去来する。この本、「物乞う仏陀」では、アジア諸国の物を乞う人々、しかも主に障害を持つ人々に焦点を当て、著者が個人的に接触し、その実態に迫ろうとしている。「何のために?」という疑問は最後まで解けなかった。著者は何も解決しようとしない。ただ、彼が知ったことを本に書いているだけだ。カンボジアから始まった彼の旅は、タイ、ベトナム、ラオス、中国、モンゴル、スリランカ、そしてインドへと続く。ああ、私はどうしてこの本を読んでしまったのだろう。特に、救いのない、最後のインドの章をどうして読み切ってしまったのだろう。世の中、いい悪いは別として、知らなければすむこと、知らない方がいいことはたくさんある。「この本は、神が不在であることの証明だ」などと言っても何も解決しない。心を静め、目を閉じると、去年、私の前から現実社会と言う黒くうずまく海に消えていった、Dという一人のベトナム人の少女の顔が思い浮かんだ...

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11月・12月の読書、「子どもの心のコーチング」菅原裕子著など [本]

本の名を並べてみてわかったが、今回も、イ-ジ-・リ-ディングに徹したようだ。ここ10年ほど音楽もイ-ジ-・リスニングが多くなってきた。こらえ性がなくなってきたのか、何事も「イ-ジ-」な方に流されている。しかし、イ-ジ-が悪いというわけではないだろう。読みやすい本はいい本なのだろうし、聴きやすい音楽はいい音楽なのだ。現代抽象画を見て、わかったような顔をすることは私にはできない。そのとき読みたい本を読むのが一番いい。冬は寒さに負けて外に出るのがおっくうになる。熱いコ-ヒ-とちょっといいチョコレ-トを友に、本を持ってソファ-に深く沈み込むのが、正しい週末の暮らし方なのだ。

「旅をする木」、星野道夫
「棚から哲学」、土屋賢二
「さくら色 オカンの嫁入り」、咲く乃月音
「優しい音楽」、瀬尾まいこ
「終(つい)の希(のぞ)み」、佐野洋
「告白」、」湊かなえ
「子どもの心のコーチング」、菅原裕子
「男は旗」、稲見一良


「旅をする木」、星野道夫
最近、はまり込んでいる星野道夫の世界。家の本棚には未読の彼の本が3冊があった。そのうち、写真のない「旅をする木」を選び出す。写真はとても楽しそうで、すぐにでも見たいと思ったが、そこをぐっとこらえての選択である。どうやら私は、「好きなものを後で食べる派」であるらしい。この本は、著者がアラスカに思いを馳せ、実際にその地に立ったいきさつ、そしてその後の暮らしが、例の非常に淡々として澄み切った文章で綴られている。アラスカの大学に入るのに英語の点数が少し足りなかった。学部長と直談判をし、自分の情熱や思いを語り、学部長に、「私の責任で入学を許可しましょう」と言わせてしまう。著者の想いの強さに驚かされるとともに、それを自分の責任で受け入れる学部長の懐の深さがとてもうれしい。星野道夫の本を読み続けていると、いつかアラスカに住みたいと思ってしまうのではないかと危惧する自分がいる。

「棚から哲学」、土屋賢二
いつものように、サーカスティックな文章が冴えわたっている。とてもおもしろい、そして、何も残らない。それでいいのだ。

「さくら色 オカンの嫁入り」、咲く乃月音
全編大阪弁の、やさしいファミり-・ラブ・ストーリー。おっさんが「読んでます」というには、少し恥ずかしく感じる本である。ストーリーはとても突飛なのに、すっと気持ちに入ってくる。サク婆という、主人公親子の住む家の大家さんの設定がおもしろい。今は、絶滅種になりつつある、近所の口うるさいおばあさん。でも、その口うるささの後ろには、しっかり人の幸福を考える芯が一本通っている。終盤の展開は、ちょっとがっかりするほど平凡(主人公の病が発覚し余命数カ月...)なのが、ちょっと読後感を弱めてしまう(って、えらそうに。あんたは評論家か?)。

「優しい音楽」、瀬尾まいこ
もう一冊、おっさんいとっては恥ずかしい本。でも、「幸福な食卓」を読んで以来、この著者の本を買ってしまう。亡くなった兄に似ているという理由で、若い女の人にアプローチされ、その家族に歓迎される。大変不自然な設定だが、この点はあまり深く追求されていない。その家族の期待値は、「亡くなった兄と同じ」であること。もちろんそんな期待に応えられるわけがない。でも、主人公はその家族とうまくやっていこうと、いろいろ努力する。やがて、その努力が、思わぬ形で報われることになる。なんとかく、楽しくなる本だ。私もフル-トを習ってみたいと思った。

「終(つい)の希(のぞ)み」、佐野洋
定年を間近に控えたり、定年を迎えた世代が主人公の短編集。文章が平易で、ストーリーも平坦なので、とても読みやすい。私だって、そんなに時間があるわけじゃない。これからどういう風に行きたいか、しっかり考えた方が良さそうだ。暮らしをどうするのか、どこに住むのか、家族とはどのように付き合っていくのか、社会との接点をどのように持つのか、そして、終わりはどのように迎えたいか。自分で決められることと決められないことがあるし、すべてが希望通りに行くわけでもない。病気になったりすれば、当然、設計図は書き直さなければならない。でも、漫然とその日を待つより、何かの準備をすることは大切なような気がする。

「告白」、」湊かなえ
本屋大賞をとったという帯に惹かれて買った本。確かに、すごく読ませるし、一つの章を読み終わったとき、次の章のページをめくる手を止められない。でも、あまりに救いのない、そして私にとっては現実味のないお話で、読後感は、「何、これ?」である。殺人の動機が納得できないサスペンスは辛い。新幹線の移動時間をつぶすにはちょうどいいかも知れない。帯には、映画化決定、全国ロ-ドショー(2010年6月...、もうやってしまったのか)とある。この映画を見た人はどう思ったのだろう。離婚して去って行った母親を振り返らせるための、正義なき殺人。そんなことをしなくても、自ら母親の前に立てばいいのにと思ったのは私だけだろうか? 最近は、「人生を終わりにしたかった」という理由で刃物を振り回す人もいるらしい。それならその刃は自分に向けるべきじゃないかと思うのは私だけだろうか。

「子どもの心のコーチング」、菅原裕子
またまた、おっさんには似つかわしくない本だ。こんなことばかり言っている私は、ひょっとしておばちゃん化しているのかも知れない。でも、この本はとても面白かった。内容は、子育てにおける子どもとのコミュニケーションや、距離の取り方に焦点があたっているが、この本で語られていることは、仕事や友人関係、 家族の間にも通用する普遍的なことのような気がする。著者は、「自己肯定感」の大切さを繰り返し述べている。それが幸福の源だと。考えもしなかったことだが、このポイントは的を得ているように思う。親の仕事は、子供がこの「自己肯定感」を持てるよう、ヘルプするのではなく、サポートすることだという。「自己肯定感」、それはいわゆる「自己中心的考え」とはまったく異質のものである。自分が生きていけるということを信じる感覚とでもいうのだろうか。今の日本の閉塞感は、この「自己肯定感」の持てない裏返しではないかと思う。

「男は旗」、稲見一良
この著者の本は4冊目だ。著者はもう亡くなっていて、作数も少ないので、とても楽しみにしていた。いわゆる、ハード・ボイルド系の作品が多く、この「男は旗」もそうだと思う...ただ、今回はあまりに都合のよい設定・登場人物ばかりで、「えっ、そんなん有り?」と、ちょっと白けてしまった。
退役海軍提督の所有する船をホテルやレストランに改造してとして営業しているという設定は、昔、ホーチミン市に赴任していたころを思い出させた。名前は忘れてしまったが、サイゴン川に、確かオ-ストラリア資本のホテル式の船が一艘係留されていて、盛業を誇っていた。でも、政府から営業延長の許可が出ず、また船としてサイゴン川を下って行ってしまった...行くたびに その姿を変え、私を驚かせるホーチミン市。確かに人々は豊かになり、自転車からバイクへ、そしてバイクから車へと乗り物も変わる。夜には電源が切られていた冷蔵庫も、「普通」に」使われるようになり、人々は経済発展の恩恵を受けている。ただ、その分、失われて行っているものも多い。あの、ゆっくりとしたベトナムコー ヒーの、ポトポト落ちるドリップの一滴一滴は、もう見かけなくなってしまった。人々が、発展とともに幸福になっていることを願わずにはいられない。

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10月の読書 「極北に駆ける」など [本]

読書の秋である。しかし、仕事が忙しくなり、PCの画面を凝視する時間が増えると、目が疲れるらしく、本に集中できなくなる。それでも、本はいろんなことを教えてくれる。


「花の回廊、流転の海 第5部」、宮本輝
「アホの壁」、筒井康隆
「極北に駆ける」、植村直巳
「花散らしの雨 みをつくし料理帖」、高田郁
「対岸の彼女」、角田光代
「1勝9敗」、柳井正


「花の回廊、流転の海 第5部」、宮本輝

第4部に続き、第5部を読んだ。完結編みなるべき第6部はまだ出ていない...いつになるのだろう。息子の伸仁の驚くべき柔軟性と包容力。想定もしていないとんでもない環境におかれても、人は強く生きていく。そこで曲がってしまうか、真っすぐに生きられるかは、教育の役割が重要だが、その個人の持って生まれたものも大きくものを言うのだと思う。人に感謝して生きるか、恩を忘れないで生きるか、ひとの頭を踏んで這い上がろうとするか、人は様々な選択をして生きている。「幸福とは何か」、「幸福に生きる」とはどういうことなのか、考えさせられる本である。


「アホの壁」、筒井康隆

てっきり「バカの壁」のパロディ-だと思っていた。筒井康隆ならやりそうなことだと。しかし、本編は至極真面目な分析を積み重ねている。ここでいうアホとは、関西で言う暖かい意味の「アホ」ではなく、正気を逸した発言・行動を指している。「アホ」とう言葉がけっこう好きな私には若干抵抗のある定義がされている。私的には、「アホちゃうか」は、「あなたが好き」とほとんど同意語(言い過ぎかも知れない)である。高知能的な「アホ」には尊敬の念を覚える。明石家さんまも言っていた、「アホじゃありませんよ、パ-でんねん」。「アホ」と言われても腹は立たないが、「パ-」と言われるとムカっとくる、「バカ」と言われると喧嘩になる、それが関西人のスタンダ-ドではないだろうか?(ん? 私だけ?)。本書では、そういう「アホ」ではなくもっと危険なアホを定義している。人が「アホの壁」を越えてしまう時、何が起こるのか。フロイトの分析などを交えながら、わかりやすく書かれている(と思う)。ただ、これを読んだからといって「アホの壁」を越えて向こうへ行かなくなるかと言うとそうでもない。感情の高ぶりや自己中心的発想などで人は簡単に「アホの壁」を越えてしまうのだ。


「極北に駆ける」、植村直巳

若き日の植村直巳が、南極大陸単独横断の準備の一環として、極北のグリ-ンランドで約1年間、エスキモ-たちと暮らし、極寒の地で生きる技術を習得し、3000kmの犬ぞり単独行を成し遂げるまでのノン・フィクション。彼の本を読むのは2冊目、前回はエベレストなど山の本だったが、今回は一転、雪と氷と海の世界、エスキモ-たちとの交流、そして孤独な犬ぞり単独行を生き生きと描いている。何の取っ付きもないグリ-ンランドのエスキモ-の村、「シオラバルク」に一人渡り、そこに住むエスキモ-たちとゼロからの関係を築いて、やがては家族のごとく(実際エスキモ-の老夫婦と親子の契りを交わす)付き合うようになる。これはエスキモ-の持つ大らかさと、厳しい生活環境で生きていくための助け合いの原則による所も大きいが、何と言っても植村直巳が彼らの中に飛び込み溶け込んでいく技術というか持って生まれたものの為せる業だと思う。「シオラバルク」につくや否や、船からの荷揚げを率先して行い、子供たちに縄跳びを教えて、エスキモ-たちの警戒感を解く。初めて招かれた家で、鯨の生肉の塊をナイフで削いで食べるという、歓迎のご馳走を必死で受けるエピソ-ドは愉快だが、もし自分がその場に置かれて、血のべったり着いた生肉を口に入れ自信はない。全編に渡って流れているのは、植村直巳のすさまじいばかりの「生きる力」と驚くばかりの「楽観主義」である。そして、どんなに飢えても、エスキモ-なら当然する、犬ぞりの犬を殺して食べることのできない弱さが、人間としての彼の魅力になり、読んでいる私を引き付けて放さない。著作に限りがあるが、ぼちぼちと彼の本を読んで生きたいと思う。

この本を読んでいると、日本人に容姿が似ていると言うエスキモ-たちに親近感が湧いてくるが、彼らの食文化には到底ついていけない。アザラシのおなかに詰めた鳥を食べるシ-ンは、想像するだけで5kgほど体重が減りそうである。エスキモ-式ダイエットを提唱する人はいないのだろうか(食べられなくて痩せるので、あまり健康的ではないが)。


「花散らしの雨 みをつくし料理帖」、高田郁

シリ-ズ第2弾、今回も楽しくあっという間に読んでしまう。旬の食材といろんなエピソ-ドが重ね、江戸と上方の味覚の違いなどを題材にしながら、工夫を凝らした料理の世界を楽しませてくれる。「常識と言われるものにチャレンジする」、「批判を受け止める」、「助け合う」、「してもらった恩を忘れない」、「人の痛みをわかる」...このお話しは、どこにでも転がっているのに、現代日本に生きる私たち(私は今ソウル在住だが)が忘れがちな、生きていく上での術を優しく思い出させてくれる。もちろん時代物、究極のフィクションだから、現実性はない。でも、この物語に描かれている時代へタイムスリップして、「つるや」で澪の料理を食べてみたいと思うのは私だけではないはずだ。


「対岸の彼女」、角田光代

学生時代のいじめ、孤独、家出、苦手な対人関係...いついじめの矛先が自分に向かうかおびえる葵。「私の大切なものはそにはない」、超越したようなことを言う友人ナナコ。飛び降り自殺未遂で二人の関係に終止符が打たれる。「これでいいのか?」、何となく手ごたえのない日々を送る10数年後の小夜子。そんな葵の過去と小夜子の今が交錯する物語り。「何のために歳を重ねるのか?」、「友達とは永久なのか?」、そんなことを考えさせられる一冊だ。背景や題材からして、例によっておっちゃんが読む類の本ではない。ナナコの言う、「私の大切なものはそこにはない」、つまり、「それは瑣末などうでもいい」ということは、生活の中でよくある。と言うより、私の場合、たいていのことがその部類に入る。自分が主張し守り通そうとすることはそんなに多くない。でもそれは、ひょっとすると、ナナコのように現実から目を背けていることになるのかも知れないが。
物語りの最後で、いったん仲たがいをしたように思えた小夜子が葵を訪ねるシ-ンは、感動的である。人を理解するとはどういうことなのか。理解するには、話せないことが多すぎる。「誰かに会うために歳を重ねてきた...」、小夜子は思い至る。ずいぶん昔の高校生だったころの自分たちが、川の対岸を走っていく。その彼女たちに大きく手を振って、「私だって、がんばってんだよ」、小夜子は微笑む。私は、ふと、アンジェラ・アキも「手紙、15の君へ」を思い出す。大人になった自分との会話。それは、川のこちらと対岸で手を振り合うようなものなのだろうか。


「1勝9敗」、柳井正

この本を買った時はBusiness書という意識はなかったが、UNIQROの会長によって書かれたこの本は紛い無くBusiness書だった。説教をされるのが苦手な私は(たいていの人は苦手だろうが)、この手の本は(HONDA、TOYOTA、PANASINICなど)まったく読んでいない。もちろん学ぶ点は多々あると思うが、日経と同じように基本的につまらない(と思う、読んでないからわからないが)。私にとっての読書は楽しむためのもので、それ以外の何者でもない。しかし、UNIQROの実質的創設者が書いた本なら興味がわいた。どのようにあの店舗ネットワ-クを構築し、商品開発をしたのか。読んでいくと、柳井氏が「当然」のことを言い実行しているのがよくわかる。顧客が欲しているものを作り(買い)、早く、顧客のもとへ届ける。宣伝は伝えるのではなく伝わるようにする。社員に会社の目指す基本ポリシ-を周知徹底し、その中で独自の創意工夫を奨励する。信賞必罰を徹底する。みんなが経営者意識を持つ。社会貢献を意識する。評価は最終的に顧客が下す。並べてみると、何ら特別なことは何もない。だが、これらを徹底的に追い求め、実行している会社(UNIQROがほんとうにそれを実行しているかどうかは私にはわからないが)は、そんなにない。

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8~9月の読書 「アルジャ-ノンに花束を」、「ダイヤモンド・ダスト」など [本]

相変わらず読書のペ-スが遅い。「秋の夜長」、「読書の秋」というのはもう死語なのか。実際、秋の夜が長いというのは理屈として納得がいきにくい。冬の方が夜は長い。


「ダイヤモンド・ダスト」、南木佳士
「永遠のとなり」、白石一文
「リセット」、北村薫
「ひとりすもう」、さくらももこ
「借金取りの王子」、垣根涼介
「八朔の雪」、高田郁
「定年ですよ」、日経ヴェリタス編集部
「天の夜曲、流転の海 第4部」、宮本輝
「アルジャ-ノンに花束を」、ダニエル・キ-ス
「短編ベストコレクション 現代の小説2009」、日本文藝家協会編


「ダイヤモンド・ダスト」、南木佳士
医師でもある著者が、芥川賞を取った作品を含む短編集である。この著者の「阿弥陀堂だより」は原作も映画も見た。どちらもとてもよかった。「阿弥陀堂だより」もこの短編集も、再生のお話しだ。医師であるがゆえに、人の死ということに、少なくとも一般市民よりも、頻繁に接している人でなければ書けないお話しかもしれない。淡々としたスト-リ-の中に、心の葛藤、罪の意識、激しい思いなどが品良く織り込まれている。信州の暮らしにある意味あこがれている私には、物語の舞台がその地であるのも、なんだかうれしかった。ガンを宣告され覚悟を決め日本で死ぬことを選ぶアメリカ人宣教師、自分の手で大きな水車を作ろうとする年老いた父親、それを批判げに見ながら気がつくと一番熱中していた看護士、その子供、看護士を助け最後にはアメリカでの生活へ去っていく高校の女友達...いろんな人が一箇所を見つめ、自分の仕事をしていく美しい時間。そしてそれが壊れる瞬間。

ダイヤモンド・ダストは空気中の水分が氷結しそれに太陽の光が反射して起こる現象だ。私は、1度だけそれをみたことがある。約30年前、北海道に住んでいたとき、車で2時間ちょっとかけて富良野のスキ-場に出かけた。当時は、「北の国から」がTVで放映されていたこともあり、倉本 聰がよく立ち寄った、「富良野プリンス・ホテル」はあの辺りでは、特別の場所だった。そこに一泊しての短いスキ-旅行。朝一番のリフトに乗り、一番上のゲレンデに立つ。「さあ、今日も滑るぞ」、富良野平野に向かって立ち、手袋をきつく嵌めなおしていた時、零下15度のゲレンデの向こうにダイヤモンド・ダストが現れたのだ。息を呑む美しさ、そして、どうしようもないはかなさが、キラキラと光った。


「永遠のとなり」、白石一文
テ-マは「再生」だと帯に書いてあった。確かにそうだと感じたが、私は「再生」より、「友情」の方が大きく感じられた。現代国語で、「作者の意図するところを述べよ」的な設問が出されるが、「そんなこと知るか。オレは作者じゃない」と反発したものだ。確かに作者は何かを意図しているのだろうが、はたして、その意図をそのまま伝える力が作者の綴った文章にあるとは限らない。また、読み手のその時の環境や感情によって、作者の意図とは、まったく違うように読まれるかもしれない。「ベート-ベンの思いを伝えたい」と言って、私がバイオリンを演奏しても、恐らく伝わらないだろう(これには、かなり自信がある)。

で、この「永遠のとなり」を読んで、はたして自分には100%寄っかかり、寄っかかられる友達がいるだろうかと思った。答えは残念ながら「否」である。大切な友人はいるが、このお話に書かれたような友人はいない。主人公は、勤める会社の合併によって不遇の時を過ごし、信頼してくれていた部下が自殺してしまうことから、精神のバランスを失って、故郷に戻ってくる。その彼を友人が、そっと、そして、確かに受け止めてくれる。今の厳しい経済環境の中、決して作り事ではない、よくある話かも知れない。その苦しみにどうやって対処し、そして違う何かを見つけるか...


「リセット」、北村薫
北村薫の本は何冊か読んだ。落語家と女子大生と推理もののシリ-ズはおもしろかったし、他にも読みやすい本が多い。この「リセット」は、「スキップ」、「タ-ン」との3部作の3作目だという。確かに前の2作はっ読んだ...でも、よく覚えていない。今回のお話は、場面や時間が交錯して、ちょっと取っ付きにくい感じがした。ちょっとがまんをして読んでいると、ある瞬間から、ふわっと物語の中に入っていけた。ちょうど8月の中ごろ読んだので、物語の設定の神戸の空襲などがずしんと心に響いた。啄木の短歌をキ-にした時間を越えた再会、スト-リ-が繊細で、読ませるお話しだった。戦争は人々の暮らしを幸福を人生を、あらゆる面で壊していく。勝者など、どこにもいない。あるのは殺人者と被殺人者だ。それでも、人は生きていかなければならない。そしてある日、奇跡が、ありえない再会を実現する。、「スキップ」、「タ-ン」をもう一度探し出して、読まなければならない。


「ひとりすもう」、さくらももこ
基本的に、ちびまるこちゃんが大好きだ。日本の番組を娘がDVDに撮ってくれる(なぜか有料)が、私のリクエストは「探偵ナイト・スク-プ」と「ちびまるこちゃん」を入れること。漫画以外にも、さくらももこのエッセイは何冊も読んだ。とても楽しい。この「ひとりすもう」は、彼女が、学生時代からやがてプロの漫画家として世に出るまでの話だ。ごくごく普通の少女が、「さくらももこ」に成って行くまでの繊細な心の過程が描かれている。一時はお笑い芸人になることを考えたというエピソ-ドもあった。彼女のスト-リ-には、サーカスティックな皮肉などはあっても、根本的な悪意がない。読後感もふわふわして心地よい。



9月の読書

「借金取りの王子」、垣根涼介
ご存知、「君たちに明日はない」の続編だ。前作を読んだあとNHKのドラマで見たので、読んでいる途中、その時の役者たち(坂口憲二、田中美佐子など)の姿が目に浮かんだ。坂口憲二は、原作に書かれているよりかなり骨太すぎるような気もした。リストラを依頼する会社に赴き、対象者にリストラに応じるよう面接を行ったり、退職条件を説明したり、あまりやりたい仕事ではない。実際にリストラにあった人たちがこの本を読んだらどう思うんだろう。自分が現在の職にぴったり適しており、遣り甲斐を感じ、パフォ-マンスも上がっているという人は、たぶん極少数だろう。たいていの人が、何らかの問題や不満を抱えながら働いているのが現状だと思う。そこにリストラの話。考え悩み、「次行ってみよう」と思う人もいれば、「絶対にやめたくない(その職が自分に合っているからではなく、次に行きたくないなど)」と思う人もいる。自分のしたいことが定まらず自分探しに出る若者。自分に合ってないと自覚している職にしがみつくベテラン社会人。どこにどういう違いがあるというのか。

6つのエピソ-ドから成る本の中で、タイトルにもなった「借金取りの王子」は、現実感とはちょっと離れるが面白く読ませる。レディ-スの元ヘッドが、消費者金融の支店長、その下で働く早慶のような大学を出た若者、達成できないノルマ、過酷な罰則、飛び交う怒号、そして純愛...「田舎でゆっくり暮らすという選択肢もあるんだよ」、レディ-スの元ヘッドが切ないほど優しい。


「八朔の雪」、高田郁
こういう時代ものを読むと、得した気分にさせてもらえる。前にも書いたと思うけれど、史実を追った小説以外は、時代小説は現実性を考えずに書ける無限のフィクションになる。この八朔の雪の主人公、澪は、幼いころ大阪の漆職人の父と母を大水で亡くし、料理屋にのご遼さんに拾われ、料理の修行をする。高名な占い師に よれば、澪は「雲外蒼天」の星を持つという。とてつもない難関苦難を乗り越えると、龍が雲を突き破って雲の外に出た時のように、誰も見たことのないような蒼い空を見ることができる...お話では、その難関を料理の工夫と努力でひとつづつ乗り越える姿が描かれている。とても読後感のいいお話が並んでいる。すでに3巻まで出ているようなので、蒼い空はなかなか見えないのだろうが。

このお話の中でとても興味深いのは、大阪と江戸の味覚の違いである。色、香り、味、その地方によって慣れ親しんだものがあり、それには、たぶん何らかの理由があり、その地方の人に外から持ってきた料理をそのまま出しても歓迎されるとは限らないのである。関西生まれの私には、江戸で料理の勝負をする澪の困難が少しわかるような気がする。


「定年ですよ」、日経ヴェリタス編集部

定年後の資金計画に対する解説書というより、警告書と言った方がいいかもしれない。ある架空の家族を例に、定年後の資金計画のポイントや落とし穴などが書かれている。私も50の越した今、何らかの準備を始めなければならないのだろうが、この本を読んでもあまりピンと来なかった。特に年金のあたり、私は日本の年金制度からほとんど外れてしまっているのであまり参考にならないし、生命保険だって随分前に死亡給付のないものにしている。キャッシュフローを作るよう勧めているが、不確定要素が多すぎる。それは自分たちのことだけではなく親や子供たちのことまで含むので、どのような前提条件を設定するかによって、将来の像はずいぶん違ってくる。ま、そんなことを言っていつまでも、逃げているわけにはいかないので、何か考えなければいけないなという気にさせてくれる本である。


「天の夜曲、流転の海 第4部」、宮本輝

どうも読んだことがあると思いながら最後まで読んでしまった。自分のブログを振り返ると去年の5月に読んだようだ。長編連作の第4部(最終は第6部)である。これはどうやら、第1部から読み直さねばならないような気がする。
「自分の自尊心より大切なものを持って生きにゃあいかん」、主人公の松坂熊吾は自分に言い聞かせ、そして息子の伸仁に語り聴かせる。四国出身の熊吾が戦後の時間を駆け抜けた半生を描いている。テーマとしてはいささか語りつくされ、ありふれたものかも知れない。「自分の自尊心より大切なもの」、それは人間はなぜ生きるかという問いに直結する。自尊心が強いとは思えない私だが、はたしてそれより大事なものを持っているだろうか。応えはたぶん、「否」である。何も考えず、志や目標もなく、毎日を小ざかしく生きている。病を負った両親の家、誰もいない居間でこの本を読んだ。BGMはNorahJones。彼女の気だるいような声が、残暑と言うには遅すぎる生ぬるい空気といっしょになり、「それでええやん」と歌ってくれた。


「アルジャ-ノンに花束を」、ダニエル・キ-ス

出だしは文章が読みにくくて、投げ出しそうになった。読みにくいのは、それが幼児並みの知力しか持たない主人公の「けいかほうこく」だからだ。漢字が少なく、「てにをは」を間違え、句読点がない。日本語訳の本だから当然それらの間違いや幼稚さが日本語で書かれている。やがて、その文章はある理由で、だんだん読みやすい「経過報告」になり、高度な語彙が使われるようになる。ふと、原作(英語)はどんな文章なんだろうか興味が湧く。「てにをは」の間違いは、前置詞や接続詞の間違いなんだろうという想像はつく。幼児並みの知力の持ち主が、ある手術により、ものすごいスピ-ドで学習を重ね、天才的な知力を得るようになった。主人公は、その知力をうまくコントロ-ルできない。やがて、その知力が一時的でしかないことを天才的な知力を得た主人公は知る。知力が低かった頃、からかいや侮蔑の対象として「仲良くしてくれた」人たちが彼の元を去っていく。最早、主人公をいじめることが出来ず、逆に天才的知能を得た主人公から見下されるのだ嫌なのだ。人間は恐ろしい。アルジャ-ノンは同様の実験手術を受けたネズミの名前だ。さて後半の山場と言うときに、私はこの本を読んでいた両親の家から帰ってこなくてはいけなくなった。そして、もちろん本をそこに忘れてきた。ジャンルとしてはSFであるが、この本が取り扱う題材は重い。私たちはどうして、自分と違うものを排他し、攻撃するのだろう。誰もがみんな一人一人違うのは明白なのに、なぜその違いを認めようとしないのだろう。なぜ比べるんだろう。何らかの理由で人と同じように出来ない人を、なぜバカにするんだろう。この本は、とても大切な問いかけをしてくれる(最後まで読んでないけれど)。


「短編ベストコレクション 現代の小説2009」、日本文藝家協会編
いろんな作家の読み切りの短編集は楽しい。浅田次郎 伊集院静 高村薫 森絵都 角田光代 井坂幸太郎 大沢在昌 石田衣良 などが入っている。短編は人物や状況・情景の模写にスペ-スを割けないので、基本的に「アイディア勝負」になる。その分、読んでいてテンポがあり、多彩なスト-リ-に出会える。もちろん、読んですぐに忘れて行くのも短編の宿命のような気がする。最近は、長編を読んでも、すぐ忘れていくが...

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